漢詩・唐詩・宋詩 中国文学007

五代十国 宋




五代十国 宋


五代十国 907年〜960年

唐の滅亡から宋の成立までの間に黄河流域を中心とした華北を統治した五つの王朝(五代)と、華中・華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代である。
 
581 貫休 832―912
政治家・詞人。字は幼安、号は稼軒(かけん)、歴城(現在の山東省済南市)の人。
 歴城(山東)出身。字は幼安、号は稼軒。華北に住し、采石磯の役での金軍の動揺に乗じて挙兵すると初めは耿京に従い、耿京が張安国に殺されると安国を捕えて宋に帰順し、承務郎とされた。孝宗期には各州知事を、後に湖北・江西・湖南の安撫使を歴任し、任地の治安民政を安定させた。主戦論者だったために和平派の弾劾で罷免され、まもなく浙東安撫使・鎮江知府に任命されたが、勅使到着前に歿した。朱熹とも親交があり、朱熹の歿した際には偽学の禁を冒して追悼・埋葬した。政治家としては大成しなかった辛棄疾であるが、文人としては名声を博し、金に対抗し宋による故地回復を願った文章を数多く残している。また様々な題材での詞・漢詩も残しており『稼軒集』などが現在に伝わっている。北宋の蘇軾と並び「蘇辛」と称されることもある。検索エンジン「百度」の社名は、彼の作品『青玉案』に由来。
春晩書山家屋壁
582 羅隱  833〜909
五代の詩人。字は昭諫。本名は横。江東生と自号する。呉越、新城の人。晩年、呉越王銭鏐に仕えて、銭塘県令などを任じた。後梁の朱全忠に諫議大夫として召されるが行かず。『舊唐書・列傳・羅弘信・子威』「錢塘人羅隱者,有當世詩名,自號江東生。」或いは「江東人羅隱者,佐錢鏐軍幕」(『舊五代史・梁書』)ともする。 自遣(得即高歌
失即休)   江
南行(江煙涅雨
蛟?軟)   蜂
(不論平地與山
尖)   
583 馮延巳(ふうえんし) 903―960
中国、五代の南唐の詞人。一名延嗣。字(あざな)は正中。広陵(江蘇(こうそ)省揚州)の人。初め南唐の中主李(りえい)に書記として仕え、のちに宰相に至った。政治家としてはあまり高く評価されず、もっぱら詞人として知られる。その詞は多く士大夫(したいふ)の閑情や男女の離情を歌い、作風は閑雅、艶麗(えんれい)を極める。唐・五代の詞人中、北宋(ほくそう)の詞壇にもっとも大きな影響を与えた。詞集には、宋代に入って外孫の陳世修の編んだ『陽春集』があるが、これには晩唐・五代・北宋前期の詞人の作品が数多く混入している。 謁金門
584 馮道(ふうどう) 882〜954
 瀛州景城(河北)の出身。字は可道、号は長楽。劉守光・李存勗に仕えて荘宗に翰林学士とされ、明宗のときに中書侍郎・平章事とされた。以後、後晋を滅ぼした契丹を含む五朝八姓十一君に仕え、『資治通鑑』『新五代史』など朱子学が主潮となった後世からは破廉恥な無節操漢と排撃されたが、常に人民の安定に尽くし、時人からは寛厚の長者と讃えられ、李卓吾も「孟氏曰く、社稷を重しとなし君を軽しとなす。まことに至言なり。馮道、之を知れり」と絶賛した。 天道
585 南唐中主・李m(りけい) 916〜961
  もとの名を景通。字は伯玉。南唐の二代中主元宗。在位945〜961。南唐の烈祖(李?)の長男。昇元三年(939)、烈祖が呉から独立すると、斉王に封ぜられた。保大元年(943)、烈祖の死後に即位。保大四年(946)に?を滅ぼして福建を併せ、九年(951)には楚を滅ぼして湖南を併せた。しかし後周に圧迫されて、江北十四州を失陥した。このため帝号を去り、国主と称して、領土の保全を図った。文学を愛し、多くの詞を残した。南唐二主のひとり。 浣溪沙
586 南唐後主・李U(りいく) 937〜978
  もとの名を従嘉。字は重光。南唐の三代後主。在位961〜975。南唐の元宗(李m)の六男。はじめ安定郡公に封ぜられ、のちに鄭王に封ぜられた。建隆二年(961)、中主の死後、金陵で即位した。詞や音曲を愛し、国費を遊興にかたむけた。唐の国号を去り、宋に入貢して臣従の姿勢をしめしたが、開宝八年(975)に曹彬率いる宋の南征軍によって滅ぼされた。開封に連行され、違命侯に封ぜられた。太宗の時代になって隴西公となったが、まもなく死去した。毒殺説も根強い。南唐二主のひとり。 虞美人



北宋(ほくそう、960年 -1127年)は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号は宋であるが、金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。北宋期の首都は開封。
601 林逋 (りんぽ) 967年 - 1028年
宋代の詩人。字は君復。 杭州銭塘(浙江省)の出身。若くして父を失い、刻苦して独学する。恬淡な性格で衣食の不足もいっこうに気にとめず、西湖の孤山に盧を結び杭州の街に足を踏み入れぬこと20年におよんだ。真宗はその名を聞いて粟帛を賜い、役人に時折見回るよう命じた。薛映・李及が杭州にいたときは彼らと終日政談し、妻子をもたず、庭に梅を植え鶴を飼い、「梅が妻、鶴が子」といって笑っていた。行書が巧みで画も描いたが、詩を最も得意とした。一生仕えず盧のそばに墓を造り、「司馬相如のように封禪の書を遺稿として用意してはいない 山園小梅
602 蘇舜欽(そ しゅんきん) 1008年- 1048年
蘇舜欽(そ しゅんきん、1008年-1048年)は北宋時代の政治家・文学者。字は子美。銅山(河北省)の出身。参知政事であった蘇易簡の孫でもある。若い頃から世を慷慨し、軍事論を好み大志があった。初めは父の推挙により太廟齋郎に任命され、景祐年間(1034年-1038年)に進士に合格し、知長垣県をへて大理評事となった。康定年間(1040年-1041年)、河東に地震があったときに蘇舜欽は上疏し当時の政治の欠陥を論じて范仲淹に認められ、集賢校理となり進奏院を監督し、時の宰相・杜衍の娘を娶るまでになった。多くの学者が修飾の多い美文を書いていた中で、河南の穆修とともに古体による詩を書き、欧陽修の賞賛を得た。草書にも優れていたという。  
603 柳永 987 1053年
 崇安(福建)出身。字は耆卿、原名は三変。景祐元年(1034)の進士で、屯田員外郎となった。詞の作者として当時から著名で、艶詞が多く鄙俗と評されるが、叙情に優れ、従来の短篇詞主体に対して長篇詞を好み、詞史に新生面を与えた。 八聲甘州
6 04 晏殊  991〜1055
 撫州臨川(江西)の出身。字は同叔。景徳初期の進士で、真宗・仁宗に仕えて軍事・財政改革を進め、1040年に宰相とされた。学校再興など人材育成にもつとめ、門下からは范仲淹らを輩出し、韓g・富弼らを推挙した。文章に優れ、詞の大家としても知られた。 浣溪沙
605 欧陽脩 (おうようしゅう)  B  1007〜1072
 廬陵(江西)出身。字は永叔、諡号は文忠。苦学して進士に第一甲で及第し、1043年に知諫院とされ、この時に『朋党論』を著した。以後、同修起居注・知制誥と累進したが、杜衍・韓g・范仲淹・富弼らの左遷を極諫した為に地方に出され、12年後に翰林学士に復した。1060年に地方官から枢密副使に復して参知政事に進み、濮議では台諫側の司馬光らと対立した。
 史学に通じ、神宗期に新法に反対して致仕を許されると潁州に隠棲し、六一居士と称して『新唐書』『新五代史』を著した。周・漢以後の金石文を注解した『集古録』を著して金石学の祖とされ、又た韓愈の文章を高く評価して古文復興にも尽くした。唐宋八大家の1人とされる。
日本刀歌
蝶戀花
606 曾鞏   F   1019〜1083
 建昌南豊(江西)の出身。字は子固、号は南豊先生。太学時代に欧陽脩に認められ、嘉祐2年(1057)に進士に及第すると実録編纂官などを務めた後、地方官を歴任した。王安石と親交があったが、新法実施には反対し、1082年に中書舎人となった。唐宋八大家の1人。 虞美人草  
西樓
607 司馬光 1019〜1086
司馬光 1019〜1086
 陝州夏県(山西)の出身。字は君実。宝元元年(1038)の進士で、濮議では名分を重んじて皇伯論を主張した。神宗が即位すると翰林学士・御史中丞となったが、新法に反対して地方に転出し、後に勅命で『資治通鑑』を編集した。哲宗が即位すると皇太后の庇護を得て尚書左僕射に復し、すべての新法を廃して社会を混乱させた末、在任8ヶ月で病死して温国公を追贈された。後に元佑党人として官位を剥奪され、北宋末に名誉が回復された。
居洛初夏作
608 王安石   G 1021〜1086
 撫州臨江(江西)の出身。字は介甫、号は半山。慶暦2年(1042)の進士。主に地方官を歴任して治績を挙げ、いちじ中央に召されて仁宗に“万言書”を上呈したが、狷介さを忌まれて用いられなかった。神宗が即位すると知江寧府とされ、治績を認められて翰林学士をへて1069年に参知政事とされ、制置三司条令司を新設し、新法を逐次実施して翌年には同平章事とされた。
 新法は主に中・下級の農民や商人を庇護して経済力の再建を図るもので、財政・治安に実績を挙げたが、国制を根本から再編する政策であったため、既得権を侵された地主・豪
泊船瓜洲  
鍾山即事  
夏日即事
桂枝香
609 蘇洵(そじゅん) C 1009〜1066
  眉州眉山(四川)の出身。字は明允、号は老泉。晩学で科挙には失敗したが、読書に励んで論文を著し、欧陽脩に認められて諸文士と交流した。議論文を得意とし、『太常因革礼』編纂に参加し、完成直後に歿した。唐宋八大家の1人。 春夜  
水調歌頭  
飮湖上初晴後雨
610 富弼(ふひつ) 〜1083
   
611 蘇軾(蘇東坡)   D 1036〜1101
 眉州眉山の出身。字は子膽、号は東坡。蘇洵の子、蘇轍の兄。嘉祐2年(1057)の進士。夙に将来を嘱望され、英宗期に判登聞鼓院、直史館とされたが、神宗期に新法に猛反対して杭州通判など地方官を歴任し、1079年には詩文中で時政を誹謗したとして黄州に配流された。元佑年間には翰林学士・侍読とされ、募役法の廃止に反対して知杭州に転出し、1092年に礼部尚書に復したが、紹聖以降は恵州ついで瓊州(海南島)に流され、常州で客死した。
 文人としても著名で、父・弟とともに“三蘇”と称され、“大蘇”とも呼ばれた。線の太い詩は宋代文学の最高峰とされ、『赤壁賦』は黄州配流時に創られた傑作。唐宋八大家の1人。
念奴嬌
江城子  
春夜
澄邁驛通潮閣二首   
飮湖上初晴後雨
六月二十七日望湖樓醉書  
和陶飮酒  
題西林壁  
江城子  
浣溪沙  
水調歌頭
612 蘇轍   E 1039〜1112 
 字は子由、号は潁浜。蘇軾の弟。嘉祐2年(1057)の進士。新法の実施時には三司条令司の書記とされたが、青苗法に反対して河南推官に遷され、蘇軾に連坐して南方に流された。元佑年間に右司諫から吏部尚書、門下侍郎と進んで新法派を排斥したが、紹聖以降は広南に左遷され、後に河南許州に隠棲した。兄に劣らぬ直言家だったが、旧法派の主流とは距離を措いて部分的に新法を認め、役法・西夏対策などにも見識を有した。文人としても兄と並んで知られ、“小蘇”と呼ばれた。唐宋八大家の1人。 李公麟山荘図
613 宋江 生没年不詳
宋 江(そうこう、SòngJi?ng、生没年不詳)は、北宋末の1121年に現在の山東省近辺で反乱を起こした人物。また、その反乱事件に取材した小説で中国の四大奇書の一つである『水滸伝』では主人公となっている。 西江月
614 李師師 生没年不詳
 
615 孫覿(そんてき) 1081年〜1169年
 北宋時代(960〜1127)に活躍。幼くして蘇軾に才能を見出されたといわれる。 再宿楓橋
616 張元幹 1091〜不明
両宋期の豪放な作風の詞人(1091年〜不明)字は仲宗、号は葦川居士。長楽(現福建内)の人。対金主戦論者で、媾和に反対し、やがて退けられる。 石州慢