六朝文化と詩人 |
トピックス 六朝文化【りくちょうぶんか】 222年 - 589年 建安の武骨者は、竹林の七賢であるが、この7人は一緒に清談をしたのではないことは周知のことと思 う。建安の思想的背景は道教にあると考えている。道教と老荘思想と関係ないという学説もあるが、儒 教国学から嫌気を老荘思想に映っていく時代背景に戦国時代があり、道教に老荘思想が取り込まれ、 また変化している。 |
六朝は、中国史上で建康(建業)に都をおいた、三国時 代の呉、東 晋、南朝の宋・斉・梁・陳の総称。 呉の滅亡(280年)から東晋の成立(317年)までの時代を含め、この時代(222 年 - 589年) を六朝時代(りくちょうじだい)とも呼び、この時期の文化を特に六朝文化(りくちょ うぶんか)と称 することもある。 六朝文化(222年 - 589年) 江南の温和な気候・風土を背景に,優雅・華麗にして中国的貴族文化が開花 した。 1. 六朝 建業(南京)を都にした王朝 1)最初の南朝 ・呉 2)続いて都とした南朝4国 (1)呉 (2)東晋 (3)宋→斉→梁→陳 2. 六朝文化 特徴、担い手、思想 1)清談 魏晋の貴族社会は、清談が尊重された時代であり、王弼や何晏が無為の思 想に基づいた清談を行い、それが「正始の音」として持て囃された。 2)竹林の七賢 次いで、竹林の七賢が、思想的・文学的な実践によって、それを更に推進した。 3)老荘思想その後、郭象が老荘の思想(玄学)を大成した。 (3)東晋の貴族文化 1)詩歌 (1) 詩人 〈魏〉 孔融/阮ウ/応トウ/劉驕^陳琳/王粲/徐幹/曹操/曹丕/曹 植/何晏/繆襲/応キョ/ケイ康/阮籍 〈晋〉 応貞/傅玄/孫楚/傅咸/張翰/張載/張協/張華/潘岳/石 崇/欧陽建/陸機/陸雲/左思/潘尼/劉コン/郭璞/許詢/盧ェ/王 羲之/孫綽/袁宏/謝混 〈宋〉 陶淵明/謝恵連/謝霊運/袁淑/願延之/鮑照/鮑令暉/謝荘 〈南斉〉 釈恵休/王融/謝眺 (2) 文選 散文では対句を駆使する四六駢儷体(しろくべんれいたい)(駢文)が盛行し,こ れらの諸作品は梁の昭明太子が編纂(へんさん)した《文選(もんぜん)》に集めら れた。 2)書 王羲之・王献之の父子。 3)画 顧ガイ之 女史箴図 4)仏教文化 仏寺・仏像が盛んにつくられ,敦煌莫高窟・雲岡石窟・竜門石 窟などの石仏・ 仏画はインドのガンダーラ様式・グプタ様式やヘレニズム様式をいきいきと伝えて いる。 このように,六朝文化は江南の貴族文化を中心にするとはいえ,華北における北 方民族の質実剛健な気風も中国に受け入れられたので(例えば書における北 朝独特の鋭利な筆法など),南北を併せて,秦漢時代と隋唐時代の中間に位 置する一つの独自な文化世界を築いたといえ,特に宗教・思想史上では,春秋 戦国時代に次ぐ躍動期を迎えたといってよい。 |
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ID |
詩人名 |
よみ |
生没年 |
作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | |
西晉 266〜316 | |||||||||
裴秀 | はいしゅう | 224-271 | 禹貢地域圖 | ||||||
韋昭 | いしょう | ? -273 | 國語注 | ||||||
傳玄 | ふげん | 217-278 | 和班氏詩一首 | ||||||
皇甫諡 | こうほじ | 215-282 | 帝王世紀 | ||||||
山濤 | さんとう | 205-283 | 『山濤集』 | 〔七賢〕 | |||||
杜預 | とよ | 126 222-284 | 破竹の勢い | ||||||
陸壽 | りくじゅ | 不明 | 三国志を完成させる。 | ||||||
李密 | りみつ | 224-287 | 陳情表 | ||||||
荀メ | じゅんそう | ? -294 | |||||||
劉怜 | りゅうれい | 211-300 | 酒徳頌戒酒 | [巾軍]衣と為す | 〔七賢〕 | ||||
張華 | ちょうか | 247-300 | 博物志 | ||||||
潘岳 | はんがく | 247-300 | 西征賦 | 愁興賦 | |||||
束ル | そくせき | 262-300 | 補亡詩六首 | ||||||
張翰(張季鷹) | ちょうかん | 生没年不詳 | 雜詩 | ||||||
策靖 | さくせい | 239年 - 303年 | 索子 | 草書状 | 出師頌 | 月儀帖 | |||
陸機 | りくき | 261-303 | 豪士賦 | 歎逝賦 | |||||
陸雲 | りくうん | 262-303 | 西征賦 | 登臺賦 | |||||
王戎 | おうじゅう | 234-305 | 三都賦 | 此必苦李 | 〔七賢〕 | ||||
阮咸 | げんかん | 不詳 (210〜263) | 詠懐詩 | 〔七賢〕 | |||||
向秀 | こうしゅう | 不詳 (227〜272) | 思旧賦 | 難?叔夜 | 養生論 | 〔七賢〕 | |||
張協 | ちょうきょう | ? - 307 | 現存僅13首。 | 詠史詩1首 | 遊仙詩1首 | 雜詩11首 | |||
左思 | さし | 250-305 | 詠懐詩 | 招隠詩 | 嬌女詩 | 三都賦 | 齊都賦 | ||
張載 | ちょうさい | 280〜289活躍 | 贈司隸傅 | 鹹詩 | 劍閣 | 銘瓜賦 | |||
左貴嬪 | さきひん | ?〜300 | 花瓶 | 左思の妹(左芬) | |||||
孫楚 | そんそ | 不詳 - 293年 | 寄暢散懐 | ||||||
司馬懿 | しばい | ? -306 | 讌飲詩 | ||||||
王衍 | おうえん | 256-311 | |||||||
潘尼 | はんに | ? -311 | |||||||
郭象 | かくしょう | ? -311 | 老子注 |
中国で,3世紀初頭から6世紀末におよぶ時代の文化をいう。政治史では後漢の滅亡(220年)から隋による統一(589年)までの分裂時代を魏晋南北朝時代というが,この時期を文化史では六朝時代(文化)と呼びならわす。六朝とは呉(222年―280年)に始まる,東晋(晋を参照)・宋・斉・梁・陳の6王朝をいうが,いずれも長江下流の建業(建康,現在の南京)を首都とした。この時代の華北は五胡十六国や北朝諸王朝が北方や西北方の異民族政権であったのに対し,漢人の6王朝が興亡した江南では,漢代以来の中国の伝統が温存されており,華北から戦乱を嫌って移住してきた貴族・豪族も含めて貴族社会が形成され,貴族が皇帝権力をも左右していた。加えて,江南の温和な気候・風土を背景に,優雅・華麗にして中国的貴族文化が開花した。文学では陶潜や謝霊運がおり,散文では対句を駆使する四六駢儷体(しろくべんれいたい)(駢文)が盛行し,これらの諸作品は梁の昭明太子が編纂(へんさん)した《文選(もんぜん)》に集められた。絵画の顧【がい】之(こがいし),書の王羲之(おうぎし)・王献之父子が有名。宗教では来世救済を説く仏教が盛んとなり,西域から僧侶が北朝に来中して仏典の翻訳に努める一方,中国からは法顕(ほっけん)がインドを訪れた。また,春秋戦国時代の老荘思想に後漢末以来の現世利益を求める民間信仰が加味された道教が成立し,北魏の寇謙之(こうけんし)によって初めて教団化された(442年)。一方,儒教では仏教や老荘思想の影響もあって,世俗を超越して論議にふける清談の風潮がうまれた(竹林の七賢など)。仏教の盛行にともなって仏寺・仏像が盛んにつくられ,敦煌莫高窟・雲岡石窟・竜門石窟などの石仏・仏画はインドのガンダーラ様式・グプタ様式やヘレニズム様式をいきいきと伝えている。このように,六朝文化は江南の貴族文化を中心にするとはいえ,華北における北方民族の質実剛健な気風も中国に受け入れられたので(例えば書における北朝独特の鋭利な筆法など),南北を併せて,秦漢時代と隋唐時代の中間に位置する一つの独自な文化世界を築いたといえ,特に宗教・思想史上では,春秋戦国時代に次ぐ躍動期を迎えたといってよい。 |
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六朝時代は、中国における宗教の時代であり、六朝文化はこの時代に興隆した宗教を基に花開いた。一方では、後漢代に盛行した神秘的傾向の濃厚な讖緯の説・陰陽五行説の流れの延長上に位置づけられる。また、後漢末より三国に始まる動乱と社会の激変に伴う精神文化の動揺が、従来の儒教的な聖人を超越した原理を求める力となったものと考えられる。 |
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儒教では、魏の王弼が、五行説や讖緯説を排した立場で、経書に対する注を撰した。それと同時に、老荘思想の影響を受けた解釈を『易経』に施したことで、その後の晋および南朝に受け入れられることとなった。その一方で、北朝では、後漢代の鄭玄の解釈が踏襲され、経学の南北差を生じさせるに至った。 |
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魏晋の貴族社会は、清談が尊重された時代であり、王弼や何晏が無為の思想に基づいた清談を行い、それが「正始の音」として持て囃された。次いで、竹林の七賢が、思想的・文学的な実践によって、それを更に推進した。その後、郭象が老荘の思想(玄学)を大成した。 | ||
仏教の伝来は、後漢代のこととされる。但し、伝来当初は、外来の宗教として受容され、なかなか浸透しなかった。六朝代になると、後漢以来の神秘的傾向が維持され、老荘思想が盛行し、清談が仏教教理をも取り込む形で受け入れられたことから、深く漢民族の間にも受容されるに至った。そこで重要な役割を果たしたのは、仏図澄、釈道安であり、道安は鳩摩羅什の長安への招致を進言し、その仏教は門弟子である廬山の慧遠の教団に継承された。慧遠は「沙門不敬王者論」を著して、覇者の桓玄に対抗した。 |
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道教は、後漢代の五斗米道に始まる。その教団が三国の魏によって制圧されると、一時、その系統は表には現われなくなるが、4世紀初頭に、葛洪が現われ、『抱朴子』を著わして不老不死を説く道教の教理体系を整備した。この時代の道教信徒として知られるのは、書聖の王羲之である。その系統は、南朝梁の時代の陶弘景に受け継がれ、茅山派(上清派)道教の教団が形成された。一方、北朝では、寇謙之の新天師道が開創され、やはりその制度面での整備が、仏教教理も吸収する形で行なわれた。 |
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六朝楷書(りくちょうかいしょ)は、中国の南北朝時代、北朝で発達した独自の楷書体の総称。現在の楷書の起源となった書体の一つであり、書道では楷書の書風の一つとしてとらえられている。現代中国では魏楷、北魏楷とも称する。 なお、「六朝」とは本来南朝側に立った時代呼称であるが、書道を含む芸術の分野ではこの時代を「六朝時代」と呼ぶことが多いため、この呼称が使われている。 |
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書風 一般的な楷書体によく似るが、その書風は洗練されたものではなく、荒削りな部分が多い素朴・雄渾なものである。中には龍門二十品など、楷書体に似ても似つかない書風のものも少なくない。 さらに決まった筆法が存在せず、10個書蹟があれば10通りの書き方が存在するというくらい多彩である。これを分類すると、大きく分けて次の二種類になる。 方筆 起筆や転折(おれ)を角張らせて力強く線を引き、石をごつごつと刻むように書く筆法。六朝楷書の主流である。張猛龍碑のように自然な勢いに任せて大胆に書くものと、高貞碑のように骨太ながら正方形の辞界に収まるように緊密な書き方をするものとがある。 円筆 起筆や転折を丸め、全体的に柔らかい筆致で書く筆法。六朝楷書の一部に見られ、鄭文公碑を筆頭とする鄭道昭の書蹟に代表される書法である。南朝の筆法の影響を指摘する向きもある。 また字体に目立った統一が行われなかったため、異体字が極めて多いのが特徴である。その数はこれだけで一つの字典が出来るほどで、現に清の羅振玉は六朝楷書の異体字のみを集めた『碑別字』という字典を上梓している。 |
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歴史と展開 時代背景 316年に内乱のため著しく国力低下した西晋が、北方異民族に追われて南に逃げ東晋となったことにより、実質的に中国は南北に分断されることになった。西晋の故地にあたる北側では「五胡十六国」と呼ばれる異民族王朝が覇権をめぐって勃興し、南側では東晋が前秦に猛攻をかけられたり、重臣に内乱を起こされたりと不安定な状態ながらも、失地回復を狙っていた。 しかし420年、南側の東晋は努力虚しく禅譲を迫られ、宋が成立。さらに439年に北側で北魏が並みいる他王朝を征し北の覇者となったことによって南北の決裂は決定的なものとなり、本格的に南北朝時代が始まる。北朝と南朝は表向きは末期の頃を除くと大きな衝突を起こすことはなかったが、片や漢民族の土地を乗っ取った異民族、片やその異民族に追われて都落ちした漢民族という立場関係は反目をもたらすに充分で、両者は冷戦にも似た関係にあった。 このため文化的・芸術的な交流もそれほど盛んではなく、書道もある程度まで南北に分かれた状態で発展することになったのである。 発生と淵源 北朝を作った北方異民族は元はモンゴル周辺を本拠とする遊牧民族であって定住する習慣がなく、また漢民族とはまったく異なる統治システムを持っていた。しかし漢民族の故地を手に入れ漢民族的王朝を作り上げたことにより、そのシステムを変更する必要性に迫られた。 そこで彼らがとったのが、漢民族の制度や文化を吸収する漢化政策であった。幸い北朝の領域内には西晋の遺民が取り残されており、彼らが漢民族文化の伝道者となることでその目的が達成されることになった。当然のごとく、漢民族の文字である漢字も彼らによって北朝側に伝えられることになった。 六朝楷書の淵源はこの遺民が伝えた西晋の書蹟にあると見られている。西晋の書は基本こそ隷書であるが、末期の頃は本来横長の隷書が正方形になるなどやや楷書寄りとも取れる書風となっている。南朝では芸術的観点から行書・草書が優先され、そこから楷書に発展するが、北朝では漢字の受容を優先し、これをそのまま発展させて彼らなりの色づけをして六朝楷書としたと見られる。 北魏での隆盛 北朝を統一した北魏は、五胡十六国の頃から漢化政策に積極的な王朝であった。統一後もその路線を取り続け、なかんずく第6代皇帝の孝文帝は平城から漢民族王朝伝統の首都・洛陽に遷都し、姓名や官職名、習俗や言語に至るまで徹底した漢化を進めた。また漢化と人心統一の二つの効果を狙って漢民族の宗教である仏教に深く帰依し、多くの寺院や仏像を建立した。 これに後押しされる形で、六朝楷書が爆発的な発展を遂げることになった。特に書風は漢化政策の影響で、当時既に楷書が一書体として確立していた南朝の書にある程度まで学び、それを彼らなりに消化したことにより、西晋代のスタイルを引きずっていた状態から脱皮して独自の個性が確立されるようになる。 このような書蹟は、紙にあまりなじみのなかった北朝では写経を除いて紙に書かれることは少なく、碑や磨崖、造像記や墓碑などの金石文の形で残され、後世に「北碑」と呼ばれる巨大な書蹟群を造り上げることになった。 この時期、5世紀末から6世紀初頭までの期間が六朝楷書の最盛期であった。 東魏・西魏以降の変容 しかし534年に北魏が帝位争いにより東魏と西魏に分裂し、さらに550年に東魏が北斉へ、556年に西魏が北周へそれぞれ交替する頃になると、六朝楷書を取り巻く状況に変化が生じる。西魏で554年に王羲之・王献之、いわゆる「二王」の法帖が戦利品として持ち込まれるなど、南朝の書蹟である「南帖」やそれに類する書蹟が流入し始め、強い影響を与え始めたのである。 これによって北朝の書家の中には「二王」を手本として六朝楷書をかなり南朝寄りに変容させた書風を確立し、後世の隋や唐の楷書にも似た書蹟をものする者も現れた。従来型の六朝楷書も多くものされている中に混じっての出現ではあったが、この積極的な南朝書法の摂取は、後の南北合一の先駆をなすものであったと言ってよい。 発展的消滅 ここにとどめを刺したのが、581年に北周皇室の外戚であった楊堅が禅譲を受けて隋を建て、中国統一に乗り出したことである。8年後の589年に南朝の陳は隋の猛攻の前にあっさりと滅亡し、中国は約270年ぶりに統一されることになった。 この統一により南北を隔てていた政治的な壁は一気に取り払われ、南北の文化交流が雪崩をうって開始された。以前から垢抜けない自分たちの文化に劣等感を持ち、南朝の文化に憧れていた北朝側の人々はこれを好機と南朝側に急接近し、南北の文化は発展的に融合して行くことになった。特に第2代皇帝・煬帝は南北を貫流する運河を造営しており、この頃までには南北の文化は完全に融合していたと考えられている。 その中で、楷書も融合の対象となった。六朝楷書と同時期、南側でも隷書の走り書きにより成立した行書が整えられて発生した原初的な楷書が、南朝につながる東晋の王羲之や王献之によって行書とともに書道の一書体として定着し、既にその時点で一つの書体として完成されていたからである。 両者は発生経路(南朝=隷書→行書→楷書、北朝=隷書→楷書)も発達経路(南朝=書道の書体として発達、北朝=漢字受容のうちに自然発達)も異なり、それぞれ単独の存在ではあったが、その書風の近似性は融合を招くだけの親和性を充分に持っていた。さらに上記の通り隋以前より南朝の書法は北朝側にある程度知れており、最末期には大きな影響を与えるほどであったため、南北統一により一気に両者の融合が進み、六朝楷書は筆法や書法など技巧面で融合して発展的に消滅することになったのであった。 しかしそのように楷書成立の片棒を担いだ存在でありながら、六朝楷書の過去の書蹟はあくまで「異民族王朝の書蹟」扱いされてこれ以降注目されることがなくなり、忘れられたまま長い眠りにつくことになる。 再評価 六朝楷書がその眠りを覚まされたのは、実に1200年以上も後の清代のことである。康熙帝の時代に儒学の一環として始まった考証学は、考古学や文字学の分野にも進出し、書道にも大きな影響を与えつつあった。 そんな時、18世紀中頃から「北碑」の出土や発見が相次ぐようになる。考証学者たちはこれまで無視されてきた異民族の書蹟のレベルの高さと独特の書風に驚嘆し、多くの学者が研究に身を投じることになった。 なかんずく阮元は「北碑」と「南帖」として北朝・南朝の書蹟を比較して「南北書派論」「北碑南帖論」を唱え、北朝・南朝での書道の発展はまったく別個であり、模刻の連続で誤りが累積した南帖よりも、石に彫られて原形がある程度まで残っている北碑の方が価値があると断じ、これにより北碑の書体である六朝楷書にも折り紙が与えられることになった。さらに包世臣がこれを絶賛、清末の康有為も南北単独発展の説は否定したものの、北碑の優秀性は認めてとどめをさし、六朝楷書の書としての立場は確固たるものとなった。現在では書道や書体研究、特に楷書の学書・研究において、六朝楷書は不可欠の存在とされるまでになっている。 日本での受容 古代における伝来 日本での六朝楷書の受容は、中国側では隋末から唐代初頭に当たる飛鳥時代から奈良時代のごく初期、一部で北碑のような実際の書蹟を経ない間接的な形で行われていたと考えられている。 事実、大化2年(646年)の「宇治橋断碑」、「日本三大古碑」として有名な文武天皇4年(700年)の「那須国造碑」、和銅4年(711年)の「多胡碑」などは、六朝楷書に極めて近い雄渾な楷書の碑である。特に「多胡碑」は鄭道昭とよく似た円筆の書である。また推古天皇23年(615年)筆の「法華義疏」も行書ではあるが、六朝楷書の意が入っているといわれる。 このように六朝楷書の影響が見られるのは、大陸文化の伝達経路が長いこと朝鮮半島経由であったことが大きく関わっている。流入して来たのは直接的には百済の書法であったが、朝鮮半島は中国大陸の北側に接続しており、直接的に北朝との接触があったため、その文化は自然と北朝寄りとなっていた。つまり朝鮮半島を通じて、六朝楷書の書法が間接的に伝わったのである。 一方、この時代には遣隋使や遣唐使により大陸との直接的な文化交流も開始され、南朝の伝統を受け継いだ唐代の書法も流入していた。そのためこの時期においては、六朝楷書と唐の書法=北朝系と南朝系両方の書法が並立していたと考えられている。 しかしこのような南北並立状態は、遣唐使が回数を重ねて唐の文化が移入され、日本文化が唐風に傾くうち、次第に南朝系の唐代書道の方が優勢となって自然消滅してしまった。かくして日本での六朝楷書の系譜は一旦途絶えることになる。 近代の再伝来 その後も中国本土で無視されていたこともあって六朝楷書は忘れられたままであったが、最初の伝来から1300年近くが経った明治13年(1880年)、清国公使に随行して来日した考証学者・楊守敬が、日本に流出した文献類を買収するための資金調達用として北碑の拓本を持参したことで再伝来することになった。 これを見る機会に恵まれた日下部鳴鶴・中林梧竹・巌谷一六は大きな衝撃を受け、これを元に新たな書法を試み始めた。彼らの六朝楷書に対する評価や入れ込み方には根強い異論や反論もあり、「奇怪な書を書く妙な書家」などと陰口をたたかれることもあったが、結果的に彼らの活動は日本の書道界に新風を吹き込み、後世に大きな影響を与えることとなった。 現在では臨書のみならず六朝楷書の筆法を用いた書も多く制作され、また楷書の学書においてもかなりの割合で一度は接することがあるというほどになじみの深い存在となっている。 |
晋 265〜420 |
西晋 265年 - 316年 |
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東晋 316〜420 |
五胡十六国 |
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一般に、439年、北魏が北涼を滅ぼして華北を統一した時点でこの時代は終わり、南北朝時代に移るとされる。おおまかにいって、華北主要部では、東部と西部に確立した二つの王朝が対立する構図が、王朝が交代しながら続いた。現在の甘粛省付近では、いずれも「涼」と自称する五つの王朝が興亡した。江南はほぼ一貫して西晋王朝の衣鉢を継ぐ東晋王朝が存続した。こうした大勢力の間でいくつかの小国が勃興し滅亡していった。 |
晉(晉、しん、265年 -420年)は、中国の王朝の一つ。司馬炎が魏最後の元帝から禅譲を受けて建国した。280年に呉を滅ぼして三国時代を終焉させる。通常は、匈奴(前趙)に華北を奪われ一旦滅亡し、南遷した317年以前を西晋、以後を東晋と呼び分けているが、西晋、東晋もとも単に、晋、晋朝を称していた。東晋時代の華北は五胡十六国時代とも称される。首都は洛陽、西晋末期に長安に遷った後、南遷後の首都は建業。宋により滅ぼされた。 西暦301年に始まった帝位継承紛争「八王の乱」によって西晋王朝が崩壊し始めたのを契機に、当時、中国の内外に多数居住していた異民族が華北に侵入した。彼らは略奪を行って引き上げるという遊牧民的な行動の代わりに中華領域内に定住して数多くの国を建国した。国の数がおおよそ十六であり、この時代を担った異民族が五族(匈奴、鮮卑、羯、羌、氏)であったことからこの名がある。 |
晋 265〜420 |
西晋 265年 - 316年 |
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東晋 316〜420 |
五胡十六国 |
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一般に、439年、北魏が北涼を滅ぼして華北を統一した時点でこの時代は終わり、南北朝時代に移るとされる。おおまかにいって、華北主要部では、東部と西部に確立した二つの王朝が対立する構図が、王朝が交代しながら続いた。現在の甘粛省付近では、いずれも「涼」と自称する五つの王朝が興亡した。江南はほぼ一貫して西晋王朝の衣鉢を継ぐ東晋王朝が存続した。こうした大勢力の間でいくつかの小国が勃興し滅亡していった。 |
ID |
詩人名 |
よみ |
生没年 |
作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | |
東晉 2317 - 420 | |||||||||
作品・詩題・特記 | |||||||||
劉コン | りゅうこん | 270 - 317 | 扶風歌 | ||||||
東晋元帝司馬睿 | (げんてい) | 276年 〜322年 | |||||||
王イ | おうい | 276 ‐ 322 | |||||||
謝混 | しゃこん | 280 ‐ 322 | |||||||
郭璞 | かくはく | 276 - 324 | 爾雅・山海嬌・楚辭注 | ||||||
王贊 | おうさん | ||||||||
曹濾 | そうりょ | ||||||||
郭 泰機 | かくたいき | 答傳咸 | |||||||
王導 | おうどう | 267 - 330 | |||||||
陶侃 | とうかん | 256 - 334 | |||||||
ユ翼 | ゆよく | 305 - 345 | |||||||
葛洪 | かつこう | 323 - 359 | 抱朴子 | 神仙傳 | |||||
王洽 | おうごう | 284 - 364 | |||||||
僧支遁 | そう しとん | 314 - 366 | |||||||
桓温 | かんおん | 312 - 373 | |||||||
王猛 | おうもう | 325 - 375 | |||||||
孫綽 | そんしゃく | 320 - 377 | 遂初賦 | 天台山賦 | |||||
王羲之 | おうぎし | 303 - 379 | 蘭亭集序 | ||||||
謝安 | しゃあん | 320 ‐385 | |||||||
僧 道安 | そう どうあん | 312 - 385 | 綜理衆經目録 | ||||||
王獻之 | おうけんし | 344 ‐ 388 | |||||||
桃葉 | |||||||||
王` | おうこう | 349 - 400 | |||||||
范寧 | はんねい | 339 - 401 | 春秋穀梁傳注 | ||||||
桓玄 | こうげん | 369 - 405 | |||||||
僧肇 | (そうじょう) | 374/384―414 | |||||||
僧 慧遠 | そう さいえん | 334 - 417 | |||||||
孔琳之 | こうりんし | 365 - 423 | |||||||
陶潜 (陶淵明) | とうせん | 365 - 427 | 帰去来辭 | 桃花源 | |||||
三国時代 | 魏 220 - 265 | 呉 222 - 280 | 蜀 221 - 263 |
晉 265 - 420 | .西晉 265−316 | ||
東晉 317 - 420 | 五胡十六国 304-439 | ||
南北朝(439〜589) |
宋 420 - 479 |
北魏 386 - 534 |
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斉 479 - 502 |
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梁 502 - 557 |
西魏 535 - 556 |
東魏 534 - 550 |
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陳 557 - 589 |
北周 556 - 581 |
北斉 550 - 577 |
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隋(ずい、581年 -618年) | |||
唐(とう、618年 -907年) 初唐の詩人たち 盛唐の詩人たち 中唐の詩人たち 晩唐の詩人たち |
ID |
詩人名 |
よみ |
生没年 |
作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | |
宋 420 - 479 | |||||||||
作品・詩題・特記 | |||||||||
謝靈運 | しゃれいうん | 385 - 433 | 山居賦 | ||||||
謝恵連 | しゃけいれん | 394 - 433 | 雪賦 | ||||||
謝膽 | しゃたん | ||||||||
羊欣 | ようきん | 370 - 442 | |||||||
王微 | おうび | 415 - 443 | |||||||
劉義慶 | りゅうぎけい | 403 - 444 | 世説新語 | ||||||
范嘩 | はんか | 398 - 445 | 後漢書 | ||||||
寇謙之 | こうけんし | 363 - 448 | |||||||
鮑照 | ほうしょう | 405 - 450 | 蕉城賦 | ||||||
崔浩 | さいこう | 372 - 451 | |||||||
裴松之 | はいしょうし | 372 - 451 | 三国志 注 | ||||||
蕭思和 | しょうしか | 406 - 455 | |||||||
顔延之 | がんえんし | 348 - 456 | 北使洛 | ||||||
謝莊 | しゃそう | 421 - 466 | |||||||
武帝 劉裕 | 420 - 479 | ||||||||
孝武帝 劉駿 | 430 - 464 | ||||||||
三国時代 | 魏 220 - 265 | 呉 222 - 280 | 蜀 221 - 263 |
晉 265 - 420 | .西晉 265−316 | ||
東晉 317 - 420 | 五胡十六国 304-439 | ||
南北朝(439〜589) |
宋 420 - 479 |
北魏 386 - 534 |
|
斉 479 - 502 |
|||
梁 502 - 557 |
西魏 535 - 556 |
東魏 534 - 550 |
|
陳 557 - 589 |
北周 556 - 581 |
北斉 550 - 577 |
|
隋(ずい、581年 -618年) | |||
唐(とう、618年 -907年) 初唐の詩人たち 盛唐の詩人たち 中唐の詩人たち 晩唐の詩人たち |
ID |
詩人名 |
よみ |
生没年 |
作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | 作品/記事 | |
齊 479 - 502 | |||||||||
作品・詩題・特記 | |||||||||
齊 | 王僧虔 | おうそうけん | 426 - 485 | 齊論書 | 書賦 | ||||
周ギョウ | しゅうぎょう | ? - 485 | |||||||
高允 | こういん | 390 - 487 | 左傳釋 | 公羊釋 | |||||
蕭子良 | しょうしりょう | 459 - 495 | 四部要略 | ||||||
王融 | おうゆう | 468 - 494 | |||||||
謝チョウ | しゃちょう | 464 - 499 | |||||||
祖沖之 | そちゅうし | 429 - 500 | 太明歴 | ||||||
孔稚珪 | こうちけい | 447 - 501 | 北山移文 | ||||||
梁 502 - 557 | |||||||||
梁 | 蕭衍 | しょうえん | 464 - 502 | ||||||
范雲 | はんうん | 451 - 503 | |||||||
江淹 | こうえん | 444 - 505 | |||||||
任肪 | にんぼう | 460 - 509 | 述異記 | 文章縁起 | |||||
沈約 | しんやく | 441 - 513 | 南宋書 | 晉書 | 齊記 | 四聲類譜 | |||
鄭道昭 | ていどうしょう | ? - 516 | |||||||
鐘栄 | しょうえい | 469 - 518 | 詩品 | ||||||
僧祐 | そうゆう4 | 445 - 518 | 弘明集 | ||||||
呉均 | ごきん | 469 - 520 | 續齊諧記 | ||||||
周興嗣 | しゅうこうし | ? - 520 | 千字文 | ||||||
劉キョウ(+思) | りゅうきょう | 465 - 520 | 文心雕龍 | ||||||
王僧孺 | おうそうじゅ | 463 - 522 | 北魏?道元 | ||||||
レキ道元 | れきどうげん | 469?- 527 | 水經 注 | 北魏蕭統 | |||||
蕭統 | しょうとう | 501 - 531 | 文選 | ||||||
顔之推 | がんしすい | ? - 531 | 顔氏家訓 | ||||||
陸杲 | りくこう | 459 - 532 | |||||||
劉遵 | りゅうじゅん | 488 - 535 | |||||||
阮孝緒 | げんこうちょ | 479 - 536 | |||||||
陶弘景 | とうこうけい | 451?- 536 | 真誥 | 本草集注 | |||||
蕭子顕 | しょうしけん | 489 - 537 | 南齊書 | ||||||
劉孝綽 | りゅうこうしゃく | 481 - 539 | |||||||
皇侃 | こうかん | 488 - 545 | 論語義疏 | ||||||
蘇綽 | そしゃく | 498 - 546 | |||||||
オン子昇 | おんししょう | 495 - 547 | |||||||
高歓 | こうかん | 496 - 547 | |||||||
徐チ | じょち | 487 - 549 | |||||||
王イン | おういん | 481 - 549 | |||||||
蕭子雲 | しょうしうん | 487 - 549 | |||||||
ユ肩吾 | ゆけんご | ? - 550 | 書品 | ||||||
僧慧皎 | そうえいこう | 497年 - 554年 | 高僧傳 | ||||||
魏収 | ぎしゅう | 506 - 572 | 北魏書 | ||||||
北周 557 - 581 隋 581 - 618 | |||||||||
北周 | 顧野王 | こやおう | 519 - 581 | 王篇 | |||||
ユ信 | ゆしん | 513 - 581 | 哀江南賦 | ||||||
王褒 | おうほう | 535-560年頃 | 活躍幼訓 | ||||||
徐陵 | じょりょう | 507 - 583 | 玉臺新詠 | ||||||
王通 | おうつう | 537 - 585 | |||||||
廬思道 | ろしどう | 535 - 586 | 隋州 |
ID | 詩人名 (生歿) / 事項 | よみかな | 作品名 | ||
78 | 元帝 (東晋) 司馬睿 | (げんてい) | 276年 〜322年 | ||
元帝は、東晋の初代皇帝。河内郡温県の人。魏の司馬懿の曾孫に当たる。祖父は瑯邪 武王司馬?、父は瑯邪恭王司馬覲。生母は夏侯光姫(魏の夏侯淵の曾孫)。弟に東安 王司馬渾がいる。 |
別詩(別罷花枝不共攀) | ||||
建興4年(316年)、漢の劉聡による侵攻を受け、愍帝が捕らえられて西晋が完全に滅亡すると、当時丞相・大都督・中外諸軍事として建業に在していた司馬睿は、江南の貴族や豪族たちの支持を得て、晋室最後の生き残りとして皇帝に即位した[注釈 1]。これが、東晋の元帝である。 しかし亡命政権である東晋の皇帝権力は微弱であり、司馬睿と同じ西晋の皇族である南陽王司馬保は司馬睿に従わず、勝手に晋王を僭称した。また、元帝のもとで宰相となった王導、そしてその従兄に当たる王敦らに軍権を牛耳られることとなった。当時の評語「王と馬と天下を共にす」は、東晋における琅邪王氏の権勢を物語っている。このため元帝は、腹心である前漢の末裔である劉隗と?協を要職に就けて、琅邪王氏の権力を徐々に排除しようと画策した。だが、永昌元年に逆に王敦に反乱を起こされ、?協やほかにも重臣であった戴淵、周らを殺害され、劉隗は北方の後趙に逃亡してしまった。しかし王敦にも東晋を滅ぼすまでの力は無く、同年のうちに王敦の軍権を認めるという条件で元帝と和睦した。 それからほどなくして、48歳で崩御した。 東晋(とうしん、?音: D?ngjin)は、中国の西晋王朝が劉淵の漢(前趙)より滅ぼされた後に、西晋の皇族であった司馬睿によって江南に建てられた王朝である(317年 - 420年)。西晋に対し史書では東晋と呼んで区別する。 |
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79 | 王羲之 (王逸少) | おうぎし(おういつしょう) | 303年 - 361年 | ||
東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれる。本籍は琅邪郡臨沂(現在の山東省)。魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の出身である。 王羲之は、書の芸術性を確固たらしめた普遍的存在として書聖と称される。末子の王献之も書を能くし、併せて二王の称をもって伝統派の基礎を形成し、後世の書人に及ぼした影響は絶大なものがある[3]。その書は日本においても奈良時代から手本とされている。 王羲之の書の名声を高めたのは、唐の太宗の強い支持と宋の太宗により編纂された『淳化閣帖』の影響が大きい。王羲之の作品としては、行書の『蘭亭序』が最も高名であるが、王羲之は各体を能くし、唐の張懐?の撰『書断』では楷書・行書・草書・章草・飛白の5体を神品としている。中国では多芸を重んじる傾向があり、王羲之の書が尊ばれる要因はここにある。『古今書人優劣評』に、「王羲之の書の筆勢は、ひときは威勢がよく、竜が天門を跳ねるが如く、虎が鳳闕に臥すが如し」[4]と形容されている。 他の作品には、『楽毅論』・『十七帖』・『集王聖教序』・『黄庭経』・『喪乱帖』・『孔侍中帖』・『興福寺断碑』などがある。 前出の『書断』には「王羲之、晋帝時、祭北郊更祝版。工人削之、筆入木三分。(大意:東晋の王羲之が祝版(祭文)を書いた。(誤字を消す)職人が木簡を削ってみたところ、あまりの筆圧で木簡には3分ほども筆の墨汁が染みこんでいた)」ともあり、この故事が日本に伝わり日本の書道は入木道とも呼ばれていた(三跡を参照)。 ![]() |
「蘭亭序」(353) 「楽毅論」 「十七帖」 『集王聖教序』 『黄庭経』・『喪乱帖』・『孔侍中帖』・『興福寺断碑』 漢文。書道おもしろサイト 『中國の書家』 http://kakuundo1008.html.xdomain.jp/shoka90_lank02.html 『日本の書家』 http://kakuundo1008.html.xdomain.jp/shoka90_lank01.html |
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王獻之 (王子敬) | おう けんし、(おうしけい) | 344年 - 386年 | |||
王 献之は、中国、東晋の書家。字は子敬。王羲之の第7子。中書令となったことから世に王大令とも呼ばれる。書道の大家で、父の王羲之とともに二王(羲之が大王、献之が小王)あるいは羲献と称される。王羲之の諸子はみな能書家であり、王献之は最年少であるが書の天分に恵まれ、羲之の書より逸気に富んでいるといわれているが、骨格だけは父には及ばないといわれている。王献之の書の特徴の一つとして一筆書(いっぴつしょ)があげられる。一筆書とは中秋帖などに見られる続け書き(連綿)のことで、この書風は王鐸や米?などに影響を与えた]。 | <玉臺新詠> 情人桃葉歌二首 |
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桃葉 | とうよう | 不詳 | |||
《王獻之情人桃葉歌二首》 其一 桃葉復桃葉,渡江不用楫。 但渡無所苦,我自迎接汝。 其二 桃葉復桃葉,桃葉連桃根。 相憐兩樂事,獨使我殷勤。 |
左の詩は、王獻之が愛妾”桃葉”のために詠った桃葉渡しは、今に至るも人に艶称されるという。 右の三首は應縣志に答えた歌と伝えられているものである。 |
《桃葉答王團扇歌三首》 其一 七寶畫團扇,粲爛明月光。 與郎卻暄暑,相憶莫相忘。? 其二 青青林中竹,可作白團扇。 動搖郎玉手,因風託方便。 其三 團扇復團扇,持許自障面。 憔悴無復理,羞與郎相見。 |
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80陶淵明(陶潜) | |||||
80 | 陶淵明(陶潜) 365〜427 | とうえんめい | |||
中国の魏晋南北朝時代(六朝期)、東晋末から南朝宋の文学者。字は元亮。または名は潜、字が淵明。死後友人からの諡にちなみ「靖節先生」、または自伝的作品「五柳先生伝」から「五柳先生」とも呼ばれる。尋陽柴桑(現在の江西省九江市柴桑区)の人。郷里の田園に隠遁後、自ら農作業に従事しつつ、日常生活に即した詩文を多く残し、後世には「隠逸詩人」「田園詩人」と呼ばれる。 陶淵明の四言詩「子に命(なづ)く」によると、その祖は神話の皇帝、帝堯(陶唐氏)に遡るという。祖先は、三国呉の揚武将軍・陶丹であり、陶丹の子で東晋の大司馬・長沙郡公の陶侃は曾祖父にあたり、祖父の陶茂は武昌郡太守となったというが、詳しい事は不明である。母方の祖父には孟嘉がいる。いずれも門閥が重視された魏晋南北朝時代においては、「寒門(単家)」と呼ばれる下級士族の出身であった。 陶淵明は393年、江州祭酒として出仕するも短期間で辞め、直後に主簿(記録官)として招かれたが就任を辞退する。399年、江州刺史・桓玄に仕えるも、401年には母の孟氏の喪に服すため辞任。404年、鎮軍将軍・劉裕に参軍(幕僚)として仕える。これらの出仕は主に経済的な理由によるものであったが、いずれも下級役人としての職務に耐えられず、短期間で辞任している。405年秋8月、彭沢県の県令となるが、80数日後の11月には辞任して帰郷した。 以後、陶淵明は隠遁の生活を続け二度と出仕せず、廬山の慧遠に師事した周続之、匡山に隠棲した劉遺民と「尋陽の三隠」と称された。隠棲後の出来事としては、408年、火事にあって屋敷を失い、しばらくは門前に舫う船に寝泊りする、411年、住まいを南村に移すも、同年、隠遁生活の同士であった従弟の陶敬遠を喪う、という事があった。この間も東晋および劉裕が建国した宋の朝廷から招かれたがいずれも応じなかった。427年、死去。享年63。その誄(追悼文)は、友人で当時を代表する文人の顔延之によるものであった。 無弦の琴を携え、酔えば、その琴を愛撫して心の中で演奏を楽しんだという逸話がある。この「無弦の琴」については、『菜根譚』にも記述が見られ、意味を要約すると、存在するものを知るだけで、手段にとらわれているようでは、学問学術の真髄に触れることはできないと記しており、無弦の琴とは、中国文化における一種の極致といった意味合いが含まれている。 <文学作品> 現存する陶淵明の作品は、詩・散文を合わせて130余首が伝えられる。その中でも「田園詩」と呼ばれる、江南の田園風景を背景に、官吏としての世俗の生活に背を向け、いわゆる晴耕雨読の生活を主題とする一連の作品は、同時代および後世の人々から理想の隠逸生活の体現として高い評価を得た。隠逸への希求を主題とする作品は、陶淵明以前にも「招隠詩」「遊仙詩」などが存在し、陶淵明が生きた東晋の時代に一世を風靡した「玄言詩」の一部もそれに当てはまる。しかし、これらの作品の多くで詠われる内容は、当時流行した玄学の影響をうけ、世俗から完全に切り離された隠者の生活や観念的な老荘の哲理に終始するものであった。陶淵明の作品における隠逸は、それらに影響を受けつつも、自らの日常生活の体験に根ざした具体的な内実を持ったものとして描かれており、詩としての豊かな抒情性を失わないところに大きな相違点がある。陶淵明は同時代においては、「古今隠逸詩人の宗」という評に見られるように、隠逸を主題とする一連の作品を残したユニークな詩人として、梁の昭明太子の「余、其の文を愛し嗜み、手より釈く能はず、尚ほ其の徳を想ひ、時を同じくせざるを恨む」のような一部の愛好者を獲得していた。一方、修辞の方面では、魏晋南北朝時代の貴族文学を代表するきらびやかで新奇な表現を追求する傾向から距離を置き、飾り気のない表現を心がけた点に特徴がある。このような修辞面での特徴は、隠逸詩人としての側面とは異なり、鍾エが紹介する「世、其の質直を嘆ず」の世評のように、同時代の文学者には受け入れられなかったが、唐代になると次第に評価されはじめ、宋代以降には、「淵明、詩を作ること多からず。然れどもその詩、質にして実は綺、?にして実は腴なり」[11]のように高い評価が確立するようになる。 陶淵明には詩のほかにも、辞賦・散文に12篇の作品がある。「帰去来の辞」や「桃花源記」が特に有名である。前者は彭沢令を辞任した時に書かれたとされ、陶淵明の「田園詩人」「隠逸詩人」としての代表的側面が描かれた作品である。後者は、当時の中国文学では数少ないフィクションであり東洋版のユートピア・理想郷の表現である桃源郷の語源となった作品として名高い。他にも自伝的作品とされる「五柳先生伝」や、非常に艶やかな内容で、隠者としての一般的なイメージにそぐわないことから、愛好者である昭明太子に「白璧の微瑕」と評された「閑情の賦」などがある。 |
桃花源記 五柳先生。 責子 無弦琴 《文選》 始作鎮軍參軍經曲阿作 辛丑歳七月赴假還江陵夜行塗口 挽歌詩 雜詩二首 詠貧士詩 讀山海經詩 擬古詩 歸去來并序 歸園田居五首・其一(少無適俗韻) 歸園田居五首・其二(野外罕人事) 歸園田居五首・其三(種豆南山下) 歸園田居五首・其四(久去山澤游) 歸園田居五首・其五(悵恨獨策還) 飮酒二十首・序(余闍初ヌ歡) 飮酒二十首・其一(衰榮無定在) 飮酒二十首・其二(積善云有報) 飮酒二十首・其三(道喪向千載) 飮酒二十首・其五(結廬在人境) 飮酒二十首・其七(秋菊有佳色) 飮酒二十首・其八(松在東園) 飮酒二十首・其九 (C晨聞叩門) 飮酒二十首・其十一(顏生稱爲仁) 飮酒二十首・其十五(貧居乏人工) 飮酒二十首・其十六(少年罕人事) 桃花源記(晉太元中,武陵人捕魚爲業) 桃花源詩(贏氏亂天紀) 詠荊軻(燕丹善養士) 雜詩十二首・其一(人生無根蒂) 雜詩十二首・其二(白日淪西阿) 雜詩十二首・其三(榮華難久居) 雜詩十二首・其四(丈夫志四海) 雜詩十二首・其五(憶我少壯時) 雜詩十二首・其六(昔聞長者言) 雜詩十二首・其七(日月不肯遲) 形影~序(貴賤賢愚) 形贈影(天地長不沒) 影答形(存生不可言) 挽歌詩・其一(有生必有死) 挽歌詩・其三(荒草何茫茫) 己酉歳九月九日(靡靡秋已夕) 諸人共游周家墓柏下(今日天氣佳) 游斜川(開歳倏五日) 擬古九首・其四(迢迢百尺樓) 擬古九首・其八(少時壯且氏j 五柳先生傳(先生不知何許人) 責子(白髮被兩鬢) 九日闍潤@序(余闍処、重九之名) 九日闍潤i世短意常多) 始作鎮軍參軍經曲阿作(弱齡寄事外) 四時(春水滿四澤) 和郭主簿(藹藹堂前林) ![]() |
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81 | 僧肇 | (そうじょう) | 374/384―414 | ||
魏晋時代,東晋の僧。鳩摩羅什の門下で〈解空(げくう)第一〉と称され,竜樹の空の思想を仏教の基礎としようとした。著書《肇論》4巻は魏晋仏教の代表的著作。 僧肇は、鳩摩羅什に師事し31歳で夭逝した天才仏教僧であった。解空第一と称され、竜樹の空の思想を中国で初めて老荘の格義を超えて理解したといわれる。著述にはインド仏教の空の思想を表現するために老荘の用語を使われ 、曇鸞大師に多大な影響を与えたことは『論註』で唯一「肇公」として固有名詞を挙げておられたり『維摩経』からの引文や「老荘」への言及からも推察される。 『肇論』涅槃無名論に、 天地與我同根。萬物與我一體。 (天地我と同根、万物我と一体。) と、ある語は有名で禅などでよく使われる。『荘子』斉物論に「天地我と並び生ず。而して万物と我とを一と為す(天地与我並生,而万物与我為一)」からのものであろう。 |
《肇論》4巻 |
三国時代 | 魏 220 - 265 | 呉 222 - 280 | 蜀 221 - 263 |
晉 265 - 420 | 西晉 265 - 316 | ||
東晉 317 - 420 | 五胡十六国 304-439 | ||
南北朝(439〜589) |
宋 420 - 479 |
北魏 386 - 534 |
|
斉 479 - 502 |
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梁 502 - 557 |
西魏 535 - 556 |
東魏 534 - 550 |
|
陳 557 - 589 |
北周 556 - 581 |
北斉 550 - 577 |
|
隋(ずい、581年 -618年) | |||
唐(とう、618年 -907年) 初唐の詩人たち 盛唐の詩人たち 中唐の詩人たち 晩唐の詩人たち |
この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三 国時代の呉、東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。この時期、 江南の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは 対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。 |
また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方遊牧民の部族制を解体し、貴族制に基づく中国的国家に脱皮しつつあった。北魏は六鎮の乱を経て、534年に東魏、西魏に分裂した。東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられた。577年、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一する。その後、581年に隋の楊堅が北周の譲りを受けて帝位についた。589年、隋は南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一した。普通は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝を北朝と呼ぶが、これに隋を加える説もある。李延寿の『北史』が隋を北朝に列しているためである。 |
西晉 | 265 - 316 | 傳玄 | 山濤 | 杜預 | 劉怜 | 張華 | 潘岳 | 束ル | 策靖 | |
張協 | 向秀 | 阮咸 | 王戎 | 陸雲 | 陸機 | 張翰(張季鷹) | ||||
左思 | 張載 | 左貴嬪 | 孫楚 | 司馬懿 | 王衍 | 潘尼 | 郭象 | |||
五胡 十六国 301頃 〜 439 南北朝 420〜 589 |
東晋 | 317〜 420 |
元帝 | 王羲之 | 陶淵明(陶潜) | 僧肇 | 謝安 | 石宗 | 葛洪 | |
謝混 | 孫綽 | 王` | 王獻之 | 桃葉 | 桓玄 | 僧 慧遠 | ||||
宋 | 420〜 479 |
謝霊運 | 顔 延之 | 謝恵連 | 謝宣遠 | 劉鑠 | 謝膽 |
永明体 |
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北魏 | 386〜 535 |
鮑照 | 鮑令渾 | 江淹 | 范嘩 | 崔浩 | レキ道元 | 蕭統 | ||
寇謙之 | 崔浩 | |||||||||
齊 | 420〜 479 |
謝兆 | 任 ム | 沈約 | 王融 | |||||
斛律金 | 鍾エ | 江淹 | 竟陵王蕭子良 | 范雲 | 陸厥 | |||||
梁 | 502〜557 | 蕭衍・梁武帝 | 梁の簡文帝 | 范雲 | 何遜 | 王籍 | ||||
王褒 | 徐 陵 | 萸信 | 陸垂 | 蕭チン | ||||||
陳 | 557〜589 | 陳後主 | 陰鏗 | |||||||
隋 | 581〜 618 |
楊 素 | 薛道衡 | 観徳王・楊雄 |
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DI | 詩人名 / 事項 | (生歿) | よみかな | 生没年/作品名 | |
90.2 | 謝混 (謝叔源) | しゃこん | ?−412年 | ||
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謝混(?−412年),字は叔源という,小字は益壽で,陳郡陽夏(今の河南省太康)の人である。東晉の名士であ る。官員であり,太保の謝安の孫である。會稽?史であった謝?の第三子である。晉の孝武帝司馬曜の婿である。 謝 混の出身は陳郡における謝氏一族である,年輕時に頗に美譽が有り,文章寫を善くし,官を累して尚書左僕射に至 る,爵に襲われ蔡縣公に望み,並びに晉陵公主を娶り妻と為す。 |
遊西池 | |||
謝膽 (謝宣遠) | しゃたん | 387−421 | |||
(宋) 謝瞻、字は宣遠、謝朗の孫で、陳郡陽夏(河南省太康付近)の人。幼いとき孤となり、叔母 の劉氏に撫養せられた。六歳でよく文を作る。従奴の混、族弟の霊運とともに盛名があった。かつて 「喜霽詩」を作り、霊運はこれを写し、混は誅(讃辞)を記したが、王弘は「三絶なり」と、はめ称した。 初め桓偉の参軍、のち劉裕に仕えて従事中郎となる。時に弟の晦は右衛将軍として権遇は甚だ重 く、賓客は輻輳してその門に至る。瞻は、かくの如き富貴権遇を門戸の福に非ずとし、「吾はこれを見 るに忍びず」と言った。しかし、劉裕が宋王朝を始めるにあたり、晦はついに佐命の功を建てたので、瞻 は益々憂えおそれ、たまたま疾を獲たが療(なお)そうとはせず、まもなく卒した。随志には、文集三 巻。 |
《文選》所収の謝宣遠詩 九日從宋公戲馬臺集送孔令詩 王撫軍?西陽集別作詩 張子房詩 答靈運 於安城答靈運 |
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91 | 謝霊運 (謝康樂) | しゃれいうん | 385〜433 | ||
東晋・南朝宋の詩人・文学者。字は宣明。本貫は陳郡陽夏県。魏晋南北朝時代を代表する詩人で、山 水を詠じた詩が名高く、「山水詩」の祖とされる。 六朝時代を代表する門閥貴族である謝氏の出身で、祖父の謝玄は?水の戦いで前秦の苻堅の大軍を撃 破した東晋の名将である。父の謝?(謝慶)が早世したこともあって、祖父の爵位である康楽公を継いだた め、後世では謝康楽とも呼ばれる。族弟の謝恵連の「小謝」に対し、「大謝」と併称され、後世では南斉の 謝?とあわせて「三謝」とも呼ばれる。聡明で様々な才能に恵まれたが性格は傲慢で、大貴族出身だったこと も災いし、後に反逆をされて捕らえられ刑死した。 406年、20歳の時に起家した。420年、東晋に代わって宋が建てられると、爵位を公から侯に降格された。 少帝の時代に政争に巻き込まれ、永嘉郡(現在の浙江省温州市)の太守に左遷させられるも、在職1年 で辞職、郷里の会稽に帰って幽峻の山を跋渉し、悠々自適で豪勢な生活を送った。この時に他の隠士とも 交流し、多くの優れた詩作を残した。 424年、文帝が即位すると朝廷に呼び戻されて、秘書監に任ぜられ、『晋書』の編纂などに従事した。その 後、侍中に遷った。しかし、文帝が文学の士としてしか待遇しないことに不満を持ち、病気と称して職を辞し、 再び郷里に帰った。 再度の帰郷後も山水の中に豪遊し、太守と衝突して騒乱の罪を問われた。特赦により臨川郡内史に任ぜ られるが、その傲慢な所作を改めなかったことから広州に流刑された。その後、武器や兵を募って流刑の道 中で脱走を計画したという容疑をかけられ、市において公開処刑の上、死体を晒された。享年48。 <著 作> 『文選』には、右に示す通り、代表作である「登池上樓」「石壁精舎還湖中作」「於南山往北山経湖中瞻 眺」などの作品が、39首と2番目に多く採用されている(最多は陸機の52首)。 謝靈運詩は60数首、訳注解説している。 謝霊運は廬山の慧遠を尋ねた時、遠師に心服して留まった。この時から仏教に造詣を深くし、慧厳・慧観と 共に、法顕訳の『六巻涅槃経』と曇無讖訳の『北本涅槃経』を統合改訂し、南本『大般涅槃経』を完成さ せ、竺道生によって提唱された頓悟成仏(速やかに仏と成る事ができる)説を研究・検証した「弁宗論」など を著した。 また、彼は鳩摩羅什訳出の『金剛般若波羅蜜経』を注釈した『金剛般若経注』なども著している。なお同 名の注釈書としては僧肇が撰著した同名の『金剛般若経注』が最初とされる。しかし僧肇撰の説には多くの 疑問が提出されており、宋代の曇応の『金剛般若波羅蜜経采微』などには「謝霊運曰く」として多く引用さ れ、僧肇の注釈書と類似点が多い。このことから近代に至っては、僧肇撰とされる「金剛般若経注」が実は 謝霊運の著作である可能性が高いといわれている。彼の著作物に関してはいまだ充分に検証されたもので はないため、今後これらを総合的に検証し直す必要性が望まれている。 もっとも謝霊運は、仏教への造詣はあったものの、その深い奥義を身をもって体現することがなく、往々にして 不遜な態度があったと伝えられることから、仏教徒としての評価は決して高いものではない。吉田兼好の『徒 然草』第108段に「謝霊運は、法華の筆受なりしかども、心常に風雲の思を観ぜしかば、恵遠、白蓮の交り を許さざりき」とあるように、慧遠の白蓮社に入ることが許されなかったといわれる. ![]() |
山居賦 東陽谿中贈答 《文選》 述祖コ詩二首 九日從宋公戲馬臺集送孔令詩 鄰里相送方山詩 從遊京口北固應詔 ?出西射堂 登池上樓 遊南亭 遊赤石進帆海 石壁精舍還湖中作 登石門最高頂 於南山往北山經湖中瞻眺 從斤竹澗越嶺溪行 廬陵王墓下作 還舊園作見顏范二中書 登臨海?初發彊中作與從弟惠連見羊何共和之 酬從弟惠連 永初三年七月十六日之郡初發都 過始寧墅 富春渚 七里P 登江中孤嶼 初去郡 初發石首城 道路憶山中 入彭蠡湖口 入華子崗是麻源第三谷 樂府 會吟行 南樓中望所遲客 田南樹園激流植援 齋中讀書 石門新營所住四面高山迴溪石P脩竹茂林詩 <擬魏太子?中集詩八首并序> 序 1. 魏太子 2. 王粲 3. 陳琳 4. 徐幹 5. 劉 6. 應? 7. 阮? 8. 平原侯植 |
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謝恵連 | しゃ けいれん | 407年 - 433年 | |||
謝 恵連(謝惠連、しゃ けいれん、397年もしくは407年 - 433年)は、南朝宋の文学者。本貫は陳郡陽夏 県。詩人としては、族兄の謝霊運の「大謝」に対し、「小謝」と併称され、後世では南斉の謝?とあわせて「三 謝」とも呼ばれる。 謝方明の子として生まれた。幼くして聡明で、10歳で文章を作ることができたといわれる。何長瑜に学問の 手ほどきを受けた。恵連は遊び好きで父の方明には評価されなかったが、族兄の謝霊運は恵連の文才を高 く評価し、彼や何長瑜や荀雍・羊?之らとともに詩文の集いを開き、山水に遊んだ。世間は彼らを「四友」と 呼んだ。恵連は本州に主簿として召されたが、就任しなかった。会稽郡吏の杜徳霊と男色関係にあり、父の 喪中にもかかわらず、彼に五言詩十数首を贈った。これが世間に知られたため、恵連は罪に問われて遠地に 流され、官界で栄達することができなかった。尚書僕射の殷景仁は謝恵連の文才を愛していたので、彼を 弁護して「臣が小児のとき、世にこの文(詩)があるのを見ました。論者がこれを謝恵連のものとするのは間違 いです」と文帝に言上し、文帝は「もしそのとおりならば、すぐに取り立ててやるべきだ」と言った。430年(元嘉7 年)、彭城王劉義康の下で司徒法曹参軍となった。ときに劉義康の治める東府城の堀の中から古い墓が 発見され、これを改葬することとなり、恵連が祭文を作ったが、その文章のたいへん美しいことで知られた。ま た「雪賦」を作り、やはり格調高い美文で知られた。433年(元嘉10年)、死去した。男子はなかった。 |
《文選》 雪賦 泛湖歸出樓中翫月 秋懷 西陵遇風獻康樂 七月七日夜詠牛女 擣衣 《玉臺新詠》 七月七日夜詠牛女 擣衣 代古 |
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范 曄 (范蔚宗) | はん よう | 398年 - 445年 | |||
魏晋南北朝時代の南朝宋の政治家・文学者・歴史家にして『後漢書』の作者。字は蔚宗。先祖は南陽郡順陽県(現在の河南省南陽市淅川県)の出身であり、会稽郡山陰県(現在の浙江省紹興市柯橋区)にて出生した。 范曄は士族の家に生まれた。祖先の范?は西晋の雍州刺史、曾祖父の范汪は東晋の安北将軍・徐?二州刺史・武興県侯、祖父の范寧は臨淮郡太守・豫章郡太守、父の范泰は宋の侍中・光禄大夫となり、死後は車騎将軍を追贈されている。范汪は「博覧強記にして、道理に通ず」とあり、『尚書大事』20巻・『范東陽方』105巻などを著している。范寧は『春秋穀梁伝集解』12巻を著し、范泰も『古今善言』24巻を著したという。范曄は兄の范昂、范ロ、范晏と末弟の范広淵がいた。 范曄は名門の生まれであったが、妾の生んだ庶子であった。范曄の母が彼を便所の中で生んだ時に彼の額が磚に当たって傷ついてしまったため、「磚」が范曄の小字となった。若くして学問を好み、経史に広く通じ、文章に巧みで音律にも通じていた。420年、劉裕が東晋の禅譲を受けて宋を建国すると、范曄は劉裕の子、彭城王劉義康の冠軍参軍となり、尚書外兵郎・荊州別駕従事史・秘書丞・征南司馬領新蔡郡太守・司徒従事中郎・尚書吏部郎などを歴任した。 432年、范曄は劉義康の母の葬儀の最中、宴席を開いたことから劉義康の怒りを買い、宣城郡太守(現在の安徽省)に左遷された。宣城在任中、志を得ずにいることから、それまでの史家たちが編纂した『後漢書』の記述を整理し、自ら『後漢書』を編纂した。数年後に許されて長沙王劉義欣の鎮軍長史・寧朔将軍、始興王劉濬の後軍長史・南下?郡太守、さらに太子・事などを歴任した。 当時、劉義康は文帝の弟として宰相の位にいて、内外の政務を取り仕切り、その権勢は皇帝の文帝を凌いでいた。440年、文帝は劉義康の腹心であった劉湛以下十数名を誅殺・流刑に処し、劉義康を江州刺史に左遷した。445年、散騎侍郎の孔熙先は劉義康の復権と擁立を謀り、范曄にも謀議の参加を誘った。当初、范曄は孔熙先を軽んじていたため、謀議に荷担することを望まなかったが、結局は孔熙先らの謀議に加わった。11月、丹陽尹徐湛之の告発により孔熙先らの計画は発覚し、范曄は自身を含む一家全員が処刑された。享年48。末弟の范広淵も兄に連座されて処刑された。 范曄の文章は、筆勢は奔放であり、言葉が美しく固まり精錬して、駢文の句法をよく備えており、「博して経史にかかわり、よい文章で、隷書、音律を分かっている。」の贊がある。 『後漢書』 范曄が左遷された時期の作。既にあった7種の『後漢書』を収集して、袁宏の書いた『後漢紀』を参考にし、現存する『後漢書』とした。 |
樂遊應詔詩 | ||||
92 | 顔 延之(顔延年) | がん えんし | 384年- 456年 | ||
中国南北朝時代、宋の文学者。字は延年。本籍地は琅邪郡臨沂県(現在の山東省臨沂市)。宋の文 帝や孝武帝の宮廷文人として活躍し、謝霊運・鮑照らと「元嘉三大家」に総称される。また謝霊運と併称さ れ「顔謝」とも呼ばれる。 顔延之(がん えんし、384年 - 456年)は中国南北朝時代、宋の文学者。字は延年。本貫は琅邪郡臨 沂県。宋の文帝や孝武帝の宮廷文人として活躍し、謝霊運・鮑照らと「元嘉三大家」に総称される。また 謝霊運と併称され「顔謝」とも呼ばれる。 顔延之は曾祖父に東晋の右光禄大夫顔含を持つなど、門閥貴族の家柄に生まれたが、父親を幼少の頃 に失ったことから没落し、家は貧しかったという。顔延之は読書を好み、目にしない書物はなく、詩文の美しさ は当時に卓越していたが、酒に酔うと細かい礼法を無視した振る舞いをし、30になっても独身であった。顔延 之の妹は劉裕(のちの宋の武帝)の腹心劉穆之の息子の妻であり、劉穆之も顔家と代々のよしみで、顔延 之の才能の評判も聞いていた。 このため劉穆之は彼を仕官させようと思い、その前に会っておこうとしたが、顔延之は会いに行こうとしなかっ た。後に後将軍劉柳の行参軍となる。415年(義熙11年)、劉柳が江州刺史となると、その功曹として治所 の尋陽(現在の江西省九江市)に赴任し、当地に隠棲していた陶淵明と知り合い、年齢を超えて親しく交 際した。後年陶淵明が死去すると、顔延之は「陶徴士誄」を著しその死を悼んでいる。 416年、劉裕が後秦征服の遠征を起こして西晋の旧都洛陽を回復すると、朝廷では彼に宋公の爵位を授 けることとなり、顔延之は勅使として洛陽に赴いた。この道中に作った詩2首は、重臣の謝晦と傅亮の賞賛を 浴びた。420年、宋が建国されると、顔延之は太子舎人に任じられた。 |
赭白馬賦并序 應詔讌曲水作詩 皇太子釋奠會作詩 秋胡詩 五君詠五首 阮?兵 ?中散 劉參軍 阮始平 向常侍 應詔觀北湖田收 車駕幸京口侍遊蒜山作 車駕幸京口三月三日侍遊曲阿後湖作 拜陵廟作 北使洛 還至梁城作 始安郡還都與張湘州登巴陵城樓作 北使洛 還至梁城作 始安郡還都與張湘州登巴陵城樓作 宋郊祀歌二首 三月三日曲水詩序 陽給事誄并序 陶?士誄并序 宋文皇帝元皇后哀策文 祭屈原文 |
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93 | 鮑照 | ほうしょう | 412頃-466 | ||
六朝時代、宋の詩人。字(あざな)は明遠。南北朝時代、宋の詩人。字は明遠。本籍地はもと上党郡(現在の山西省長治市)、後に東海郡(現 在の江蘇省漣水県、または山東省?城県)に移る。最後の官職である「前軍参軍」にちなみ、後世「鮑参軍」と呼ばれる。宋の文帝の元嘉年間を 代表する詩人として、同時期に活躍した謝霊運・顔延之と併称して「元嘉三大家」の1人に数えられる。妹の鮑令暉も詩人として知られる。元嘉 年間の三大詩人の一人として謝霊運・顔延之と併称された。現存する詩は241首と六朝時代の詩人としては比較的多く残っている。楽府詩を得 意とし、それに仮託して寒門出身ゆえの人生の不遇や艱難を詠う内容が多い。典故にもとづいた旧来の表現に拘泥せず、好んで新奇な語を用 い、風景や自らの感慨を力強くダイナミックな調子で詠う作風が特徴である。そうした作風は、同時代において通俗的で典雅さに欠けると批判され ることもあったが、後世の唐代の詩人に大きな影響を与えた。唐の詩人杜甫は、李白の詩才を「清新なるは ?開府、俊逸なるは 鮑参軍」(「春日 李白を憶ふ」)と鮑照になぞらえて称えている。 |
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玉臺新詠 巻四 4.雜詩九首其一 翫月城西門廨中 5.雜詩九首其二 代京?篇 6.雜詩九首其三 擬樂府白頭吟 7.雜詩九首其四 採桑詩 8.雜詩九首其五 夢還詩 9.雜詩九首其六 擬古 10.雜詩九首其七 詠双燕 11.雜詩九首其八(一)贈故人馬子喬二首寒灰?更然 12.雜詩九首其八(二)贈故人馬子喬 二首双劒將?離 |
文選掲載分 賦己卷十一遊覽蕪城賦 賦 卷十四鳥獸下舞鶴賦 詩乙卷二十一詠史詠史 詩 卷二十一遊覽行藥至城東橋 卷二十七行旅下還都道中作 樂府下 1.東武吟 2.出自薊北門行 3.結客少年場行 4.東門行 5.苦熱行 6.白頭吟 7.放歌行 8.升天行 卷三十雜詩下數詩 〃 〃翫月城西門解中詩 卷三十一雜擬下擬古三首 學劉公幹體 代君子有所思 |
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宋孝武帝・劉駿(そうこうぶてい・りゅうしゅん) | 430年―464年 | ||||
453年1月、長兄にあたる皇太子劉劭が文帝を殺害すると、劉駿は兄を討つべく江州で起兵した。4月、新亭に進軍して、皇帝に即位した。5月、建康を陥落させ、劉劭を殺害した。 459年4月、異母弟の劉誕が叛乱を起こすと、車騎大将軍の沈慶之に討伐させた。 在位中、中央集権を推し進め、側近に寒門を登用するなどの政策を行う一方で、数人の兄弟の一族を殺害した上に一般市民などを虐殺し、暴虐さとともに奢侈を好む一面もあった。また、実母の路恵男に甘いとの噂も立った。そのため、財源確保のために租税を厳しくするなど、宋の衰退の端緒となった。 464年閏5月、玉燭殿で死去した。 |
<玉臺新詠> 丁督護歌二首・其一 丁督護歌二首・其二 擬徐幹詩 |
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陸厥 | りくけつ | 472年−499年 | |||
南朝齊詩人。字韓卿,呉郡呉、江蘇省蘇州の人。 | <玉臺新詠> 中山王孺子妾歌 李夫人及貴人歌一首 |
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齊の竟陵王蕭子良 | しょう しりょ う |
460年 - 494年 | |||
南朝の斉の武帝の第2子である。字は雲英。文宣と諡される。竟陵王に封ぜられ、浄住子と称した。南斉代第一の文人で あり、経典や史書、老荘にも通じてしたが、仏典を最も好んで、文恵太子らと共に仏教教理に通暁していた。永明中(483 年 - 493年)に司徒・尚書令に任ぜられると、鶏籠山の邸に移り、当時一流の文人らを鶏籠山の西邸に招いた。中でも著 名な蕭衍・沈約・謝眺・王融・蕭深・范雲・任ム・陸?の8人は、「竟陵八友」と称せられる。 常に邸内で斎戒し、朝臣や衆僧を集めた。また、一生涯にわたって厳重に斎戒を守ることを誓願して「浄住子」と自称した。 邸内には、古物を蒐集して、広く天下の文章の集録を行なったため、「道俗の盛んなること、江左に未だあらざるところ」と評 せられた。文人学者らには『四部要略』1000巻を抄録させ、名僧たちには『経唄新声』を撰述させた。 また、竟陵王自身の仏教信仰を記した書物として『浄住子浄住法門』がある。 |
浄住子浄住法門 | ||||
謝眺 謝玄暉 | |||||
竟陵八友:南斉の皇族、竟陵王蕭子良の西邸に集った文人 (@蕭衍・A沈約・B謝眺・C王融・D蕭沈・E范雲・F任ム・G陸游) | |||||
江 淹 (江文通) | こう えん | 444年 - 505年 | |||
南北朝時代の文学者。 字は文通。 本貫は済陽郡考城県(現在の河南省商丘市民権県)。下級士 族の出身だったが,文才と機敏で慎重な処世により,南朝の宋・斉・梁3朝に仕えて,高官の地位に達した。 詩人としては,沈約(しんやく)とともに梁初を代表する。ことに模擬の詩を得意とし,歴代の著名な詩人の作 風を巧みに模した〈雑体詩〉30首は,《文選(もんぜん)》にも収められてよく知られる。ほかに感傷的な美文 〈別賦〉〈恨賦〉も彼の文学の一面を示す。《江淹集》9巻はほぼ原形のまま伝わる。 代表的な作品としては、「恨みの賦」「別れの賦」や「雑体詩」30首が挙げられる。 前2者は、賦という事物を羅列的に描写する叙事を本領とする文体で、恨みや別れの思いといった情感を 様々な角度から描写するというものである。このような情感の描写に主眼を置く叙情賦は、六朝時代の他の 文学者の作品にも一定数存在しているが、その中でも江淹の2編は代表的な作品と目されている。 後者は漢から宋までの代表的な詩人30人を選び、彼らの代表作の文体を模倣した連作詩で、一種のパス ティーシュである。このような歴史上あるいは同時代の文学者の作品を模倣した擬古詩・模擬詩というジャン ルは、江淹以前の多くの詩人たちによって制作されているが、いずれも単発的なものであり、江淹のように歴 代の詩人の文体を網羅的に模倣するという行為はそれ以前には見られない。 また江淹には「雑体詩」以外にも、「阮公に効(なら)う詩」15首や「魏の文帝に学ぶ」という模擬詩があり、 現存する詩約100首のうち半数近くがこれらで占められている。さらにその模擬詩は、 「文通は詩体総雑、?(模)擬に善し」(梁の鍾エ『詩品』) 「擬古は惟(こ)れ江文通 最も長ず。淵明に擬すれば淵明に似、康楽に擬すれば康楽に似、左思に擬す れば左思に似、郭璞に擬すれば郭璞に似たり。独り李都尉に擬する一首、西漢に似ざるのみ」(南宋の厳 羽『滄浪詩話』) などと評されるように、同時代および後世の人々によって高く評価されている。このように模擬詩というジャン ルを自らの詩創作の主体とする行為も、他の詩人には見られない独特のものである。 江淹は「雑体詩」に序文を著しているが、要約するとそこには、 「当世の人々は自らの狭い了見によって文学作品に毀誉褒貶を加えているが、実際にはどの作品にも独自 の良いところがあるのである。その文体を真似することによって、作品の個性を明らかにしてみたい」 という趣旨が書かれている。このように江淹は歴代の詩人たちの特徴や個性を明らかにするため、文学批評 の一種としてこれらの詩を創作したことを表明している。 「江淹(江郎)才尽く」 江淹のエピソードとして最も有名なものは、彼の文才が晩年に枯渇したという「江淹(江郎)才尽」である。 梁の鍾エの『詩品』によると「江淹が宣城郡太守を辞任し、首都建康への帰路の途中、夢に郭璞を名乗る 美丈夫が現れた。江淹に長年預けてきた自分の筆を返してほしいと言ったので、江淹は懐にあった五色の筆 を彼に返したところ、それ以来詩が作れなくなり、世間の人々は江淹の才が尽きたと言うようになった」とされ ている。 唐の李延寿の『南史』では「夢に西晋の詩人張協が現れ、預けていた自分の錦を返してほしいと言った。江 淹が懐にあった錦を取り出したところ、数尺しか残っていなかった。張協はこんなに使われては用がないと怒 り、錦を丘遅に与えてしまうと、それ以後江淹の文才が尽きてしまった」とやや異なる話を伝える。これらのエピ ソードにもとづき、後世、文人の文才が枯渇することを意味する「江淹(江郎)才尽く」という成語が生まれ た。 |
恨賦 別賦 從冠軍建平王登廬山香爐峰 雜體詩三十首 1.古〈離別〉 2.李都尉〈從軍〉陵 3.班?、〈詠扇〉 4.魏文帝〈遊宴〉曹丕 5.陳思王〈贈友〉曹植 6.劉文學〈感遇〉 7.王侍中〈懷コ〉粲 8.?中散〈言志〉康 9.阮?兵〈詠懷〉籍 10.張司空〈離情〉華 11.潘?門〈悼亡〉岳 12.陸平原〈羈宦〉機 13.左記室〈詠史〉思 14.張?門〈苦雨〉協 15.劉太尉〈傷亂〉? 16.盧中郎〈感交〉ェ 17.郭弘農〈遊仙〉璞 18.張廷尉〈雜述〉綽 19.許?君〈自序〉詢 20.殷東陽〈興矚〉仲文 21.謝僕射〈遊覽〉混 22.陶?君〈田居〉潛 23.謝臨川〈遊山〉靈運 24.顏特進〈侍宴〉延之 25.謝法曹〈贈別〉惠連 26.王?君〈養疾〉微 27.袁太尉〈從駕〉淑 28.謝光祿〈郊遊〉莊 29.鮑參軍〈戎行〉昭 30.休上人〈別怨〉 |
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95 | 鮑令暉 。 | ほうれいこん | 生卒年不詳 | ||
南朝宋女詩人。東海(現在山東?城)の人。鮑照の妹。鮑令暉も詩人として知られる。 略歴いわゆる寒門の貧しい家柄に 生まれる。元嘉 ( 南朝宋)ごろに臨川王劉義慶に認められて国侍郎、太学博士、中書舎人となる。荊州刺史の臨海王劉 子?のもとで前軍参軍の職につく。劉子?の反乱で乱戦のうちに殺害された 鍾エ《詩品》??是南齊人,但從鮑照的《請 假?》中講到僅有的一個妹妹死去等語看來,?似乎在宋孝武帝時就已去世。 |
其詩見於《玉台新詠》。今人錢仲聯《鮑參軍集注》附有鮑令暉詩。 | ||||
玉臺新詠 巻四 雜詩六首 21 巻四-21 雜詩六首其四 4. 古意贈今人 21 巻四-21 雜詩六首其五 5.1. 代葛沙門妻郭小玉詩二首(明月何皎皎) 22 巻四-22 5.2. 代葛沙門妻郭小玉詩二首(君子將遙役) |
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96 | F任 ム | (じん ぼう) | 460年- 508年 | ||
中国南北朝時代の文学者。字は彦昇。小字は阿堆。楽安博昌(現山東省寿光市)の人。南斉の竟陵 王蕭子良のもとに集まった文人「竟陵八友」の1人。散文の分野で高く評価され、南斉・梁の時代に多くの 表奏を手がけた。同じ八友の1人で、詩にすぐれた沈約に対し、「任筆沈詩」と称される。 |
『述異記』『文章縁起』(偽作説もあり)。 「出郡傳舍哭范僕射」 「贈郭桐廬出溪口見候余既未至郭仍進村維舟久之郭生方至」 |
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97 | A沈約 | (しんやく) | 441年- 513年 | ||
南朝を代表する文学者、政治家。呉興武康(現在の浙江省武康県)の人。字は休文。沈氏は元来軍事で頭角を現した 江南の豪族であるが、沈約自身は幼いときに父を孝武帝に殺されたこともあり、学問に精励し学識を蓄え、宋・斉・梁の3朝 に仕えた。南斉の竟陵王蕭子良の招きに応じ、その文学サロンで重きをなし、「竟陵八友」の一人に数えられた。その後蕭 衍(後の梁の武帝)の挙兵に協力し、梁が建てられると尚書令に任ぜられ、建昌県侯に封ぜられた。晩年は武帝の不興をこ うむり、憂愁のうちに死去したという。 |
二十一史・宋書 | ||||
玉臺新詠巻五-7 登高望春 玉臺新詠巻五-8 昭君辭 玉臺新詠巻五-9 少年新婚爲之詠 玉臺新詠巻五-10 携手曲 玉臺新詠巻五-11 有所思 玉臺新詠巻五-12 夜夜曲 玉臺新詠巻五-13 詠春 玉臺新詠巻五-14 詠桃 玉臺新詠巻五-15 詠月 玉臺新詠巻五-16 詠? (次の四首 三言五言の雜言体) 玉臺新詠巻五-17六憶詩四首其一 憶來時 玉臺新詠巻五-18 六憶詩四首其二 憶坐時 玉臺新詠巻五-19 六憶詩四首其三 憶食時 玉臺新詠巻五-20 六憶詩四首其四 憶眠時 玉臺新詠巻五-21 領邊? 玉臺新詠巻五-22 脚下履 玉臺新詠巻五-23 擬河邊草 玉臺新詠巻五-24 擬三婦 玉臺新詠巻五-25 古意 玉臺新詠巻五-26 夢見美人 玉臺新詠巻五-27 効古 玉臺新詠巻五-28 初春 玉臺新詠巻五-29 悼往 |
文選掲載分 沈約(沈休文) 公讌巻二十 「應詔樂遊苑餞呂僧珍詩」 祖餞巻二十一「別范安成詩」 詠史巻二十二「鍾山詩應西陽王教」 〃巻二十二「宿東園」 〃巻二十二「遊沈道士館」 行旅巻二十七「早發定山」 行旅巻二十七「新安江水至清淺深見底貽京邑 遊好」 〃巻二十七「和謝宣城」 〃巻二十七「應王中丞思遠詠月」 雜詩下巻三十「和謝宣城」o 〃巻三十「應王中丞思遠詠月」 〃巻三十「冬節後至丞相第詣世子車中」 〃巻三十「學省愁臥」 〃巻三十「詠湖中鴈」 〃巻三十「三月三日率爾成篇」 |
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98 | C王融 | おうゆう | 467年- 493年 | ||
南北朝時代、南斉の政治家・文学者。字は元長。琅邪臨沂(現山東省臨沂市)の人。六朝時代を代表する名門貴族、 琅邪王氏の出身。名門の出身に加えて文才にも優れ、南斉の皇族、竟陵王蕭子良の西邸に集った文人「竟陵八友」の1 人に数えられ、同じく八友の仲間である沈約・謝?らとともに「永明体」と呼ばれる詩風を生み出した。 |
三月三日曲水詩序 | ||||
99 | 蘇小小 | そしょうしょう | 未詳 | ||
錢唐蘇小:南斉(南齊)時代の銭塘の名妓。才色兼備の誉れが高かった。銭塘の蘇小小。 ・銭唐:現・浙江省杭州 市。「銭塘」のこと。唐代に「唐」字を避けて「錢唐」を「銭塘」とした。 |
歌一首 | ||||
100 | 孔稚珪 | こうちけい | 447〜501 | ||
会稽郡山陰の出身。字は徳璋。学問・詩文に優れ、蕭道成に文才を認められて起室参軍とされ、永明年間に王植の 『晋律』改修にも参与した。廷尉、御史中丞と進み、493年の鬱林王即位に際して王融を告発して自殺させ、明帝より南 郡太守とされ、東昏侯のときに太子・事・散騎常侍に至った。 |
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101 | 刑邵 | (けいしょう) | 496〜561 | ||
北朝斉文学家。字は子才。河?□(今の河北任丘北)人。 |
思公子(綺羅日減帶) | ||||
102 | 斛律金 |
(こくりつきん) | 488年- 567年 | ||
中国の東魏・北斉の軍人。騎射を得意とし、用兵は匈奴の法を学び、塵を見て敵軍の数を知り、地を嗅いで敵軍の遠近 を知ったと言われる。 |
敕勒 五噫歌 | ||||
103 | 鍾エ | (しょうえい) | 469〜518 | ||
字は仲偉。潁川郡長社の人。斉の永明年間に国子生となる。秀才に挙げられ、王国侍郎に任ぜられた。のち安国令となっ た。梁に入って、晋安王・蕭綱の記室をつとめた。漢魏以来の五言詩の優劣を論じ、『詩評』にまとめた。 |
『詩品』 | ||||
104 | @蕭衍 梁武帝 464〜502〜549 | (しょうえん) | |||
南朝梁の初代皇帝。蕭衍(しょうえん)南蘭陵(江蘇省)の蕭氏の一門であり、南斉宗室の支族に当たる。父の順之は南 斉の高帝蕭道成の族弟であり、丹陽の尹であった。若い頃より文武両面において注目され、南斉時代で文化の中心であっ た竟陵王蕭子良の西邸にも出入りし、沈約らと共に八友の一人に数えられた。 |
河中之水歌 遊女曲(氛?蘭麝體芳滑) 子夜歌(朝日照綺錢) | ||||
105 |
E范雲 (范顔龍) | はんうん | 451- 503 | ||
南朝の梁を代表する文人。字は彦龍。451年(元嘉8年)、南郷舞陽(現在の河南省沁陽)で生まれる。 斉及び梁に仕え、竟陵王蕭子良八友のひとりに数えられ、蕭衍を沈約と共に助けた。永明10年(492年)、 蕭?と共に北魏に派遣された際には孝文帝の称賞を受けている。梁では尚書左僕射(502年からは尚書右 僕射)に任じられ、その清麗な風格の詩風は当時から高い評価を受けた。503年(天監2年)没。 |
別詩 「贈張徐州稷」 「古意贈王中書」 <文選> 贈張徐州稷 古意贈王中書 效古 |
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106 |
何遜 | (かそん) | 未詳〜518 | ||
何 遜(か そん、467年? -518年?)は中国南北朝時代の文学者。東海?の人。字は仲言。曾祖父は何承 天。幼少より文才に優れ、8歳で詩を作り、20歳の時、州から秀才に選ばれた。南斉の永明年間に、当時 の文壇の重鎮であった范雲に文才を認められ、年齢を超えた交際を結ぶ。現存する詩は110首あまり。生 涯の大半を地方の幕僚として勤めたことから、友人や同僚たちとの間の応酬・離別の詩や行旅を主題とする 詩が多くを占める。その詩風は、寒門の出身者であるが故の、官途の不遇から発せられた心情表現がしば しば見られることが特徴である。その一方で、詩中における自然描写は、精巧であるとともに、豊かな抒情性 をたたえており、謝?とならび、唐詩の先駆とみなされている。 |
<玉臺新詠> 巻五-54日夕望江贈魚司馬 巻五-55輕薄篇 巻五-56詠照鏡 巻五-57閨怨 巻五-58詠七夕 巻五-59詠舞妓 巻五-60看新婦 巻五-61詠倡家 巻五-62詠白?嘲別者 巻五-63學青青河邊草 巻五-64嘲劉諮議孝綽 |
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107 |
王籍 | おうせき | 502〜519 | ||
南梁(502〜557)(おうせき 502〜519) 南北朝時代・梁の詩人。五言詩「入若耶溪」中の「蝉噪林逾静 鳥鳴山更 幽」対句はあまりに有名です。 |
入若耶渓 | ||||
108 | G陸垂 | (りくすい) | 470 - 526 | ||
陸?(りく すい、470年 - 526年)は、南朝斉から梁にかけての官僚・文人。竟陵八友のひとりとして知られる。字は佐公。本 貫は呉郡呉県。斉の太常卿の陸慧曉の子として生まれた。若くして学問にはげみ、文章を得意とした。17歳のとき、揚州の 秀才に挙げられた。竟陵王蕭子良が鶏籠山に西邸を開いて当時の優れた文人たちを集めると、陸?はこれに参加した。議 曹従事参軍として召され、廬陵王法曹行参軍に転じた。 梁の天監初年、安成王蕭秀の下で右軍外兵参軍となり、主簿に転じた。臨川王蕭宏の下に転じて、驃騎東曹掾をつとめ た。武帝の命により「新漏刻銘」の刻字を選び、その文章の美しいことで知られた。太子中舎人に転じ、東宮の書記を管掌 した。また武帝の命により「石闕銘記」を作って奏上した。太子庶子・国子博士に転じたが、母が死去したため、辞職して喪 に服した。喪が明けると、中書侍郎となり、給事黄門侍郎・揚州別駕従事史をつとめた。病のために解任を願い出て、鴻臚 卿に転じた。入朝して吏部郎となり、参選事をつとめた。 晋安王蕭綱の下に転じて雲麾長史・尋陽郡太守・行江州府州事として出向した。公の事件のためにひとたび免官され、中 書侍郎・司徒司馬・太子中庶子・廷尉卿を歴任した。再び太子中庶子となり、給事中・揚州大中正の任を加えられた。ま た中庶子・中正のまま国子博士に任じられた。さらに中正のまま太常卿を代行した。526年(普通7年)、死去した。享年は 57。文集20巻があり、当時に通行した。 |
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109 | D蕭チン | (しょうちん) | 480年 - 531年 | ||
南朝斉から梁にかけての官僚・文人。竟陵八友のひとりとして知られる。字は彦瑜。本貫は南蘭陵郡蘭陵県。 宋の太中大夫の蕭恵訓の子として生まれた。数歳のときに従伯父の蕭恵開が「必ずやわが一族を興さん」と言ってかれの背 中を撫でた。蕭?は若くして賢明で理解が早く、弁論の才能があった。斉の太学博士を初任とした。王倹が楽遊苑で宴会を 開いたとき、蕭?は虎皮の靴を履き、桃の枝を鞭として、王倹に面会して語り合い、気に入られた。王倹が丹陽尹となると、 蕭?は召し出されて主簿となった。南徐州の秀才として挙げられ、諸官を歴任して司徒記室となった。 491年(永明9年)、斉が北魏と講和すると、蕭?は命を受けて北魏の都の平城におもむいた。帰国すると、通直散騎侍郎と なった。北魏の使者の李道固が来朝すると、武帝が宴会を開いた。蕭?が道固に酒を勧めたところ、道固は「公庭に私礼な く、勧めを受けることはできません」と言って受けなかった。そこで蕭?は「『詩経』に『我が公田に雨ふり、ついに我が私田に及 ぶ』と言っています」と答えた。座にいる者はみな感服し、道固は蕭?の酒を受けた。 蕭?は司徒右長史に転じた。晋熙王長史・行南徐州事として出向した。建康に召還されて少府卿・尚書左丞を兼ねた。 東昏侯が即位すると、即位時に祖廟に拝礼する儀礼の典拠が議論された。蕭?は『詩経』周頌の烈文篇や閔予小子篇に 即位時の朝廟の典拠があると主張し、かれの意見が採用された。蕭衍が建康を制圧すると、蕭?は驃騎諮議として召し出さ れ、録事を兼ね、給事黄門侍郎に転じた。蕭衍が梁公となると、蕭?は御史中丞となった。 502年(天監元年)、梁の武帝(蕭衍)が即位すると、蕭?は太子庶子に転じ、宣城郡太守として出向した。建康に召還され て衛尉卿となり、まもなく員外散騎常侍に転じた。504年(天監3年)、太子中庶子・散騎常侍に任じられた。510年(天監9 年)、寧遠将軍・平西長史・江夏郡太守として出向した。 かつて蕭?が宣城郡太守であったとき、北魏の僧が南に渡ってきて、ひょうたんの中に『漢書』の序伝を入れてもたらした。僧は 「三輔の旧老が代々伝えたもので、班固の真本である」と主張した。蕭?が強く求めてこれを入手すると、その書は当時伝わ っていたものとは多くの異同があり、紙や墨もまた古く、文字の多くは龍挙の例のごとくで隷書でも篆書でもなかったため、蕭? はこれを秘蔵した。蕭?が江夏郡に赴任するにあたって、この書を?陽王蕭範に与えると、蕭範は昭明太子に献上した。 まもなく蕭?は安西長史・南郡太守に転じた。母が死去すると、官を去って喪に服したが、さらに父の死去が続いた。喪が明 けると信武将軍・護軍長史として再起し、まもなく貞毅将軍・太尉長史となった。信威将軍・東陽郡太守として出向し、呉 興郡太守に転じた。呉興郡に項羽の廟があり、現地の民は憤王と呼んで、霊験高いとされていた。呉興郡は郡庁の中に憤 王の神座を設けて、以前の太守たちはみな庁内の祠を拝むようになっていた。蕭?が呉興郡に赴任すると、庁内の神座を廟 に帰した。牛を殺して祟りを避ける風習を禁止し、干し肉を肉に代えた。 520年(普通元年)、召還されて宗正卿となり、左民尚書に転じ、南徐州大中正・太子右衛率を兼ねた。度支尚書・左驍 騎将軍・領軍将軍に転じ、秘書監・後軍将軍となり、侍中に転じた。 武帝は西邸にいたころから蕭?と親しくつきあっており、朝に宴会を開くごとに、蕭?のことを「宗老」と呼んで尊敬を示した。蕭? はつねづね「少壮のころは音律・書・酒の3つを好んでいました。歳をとって以来、音律と酒はやめてしまったものの、ただ書籍に ついては衰えません」と言っていた。 528年(大通2年)、金紫光禄大夫となり、特進を加えられた。529年(中大通元年)、雲麾将軍・晋陵郡太守とされたが、 病のために自ら辞職し、侍中・特進・金紫光禄大夫の位を受けた。531年(中大通3年)2月乙卯、死去した。享年は52。 本官に加えて雲麾将軍の位を追贈された。諡は平子といった。 |
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110. 00 |
簡文帝(蕭綱) | かんぶんてい | 503―551 | ||
南朝梁の第2代皇帝。姓は蕭、諱は綱。武帝蕭衍の三男。 503年(天監2年)10月、蕭綱は武帝と丁貴嬪のあいだの子として、建康の顕陽殿で生まれた。506年(天監5年)、晋安王に封ぜられた。 509年(天監8年)、雲麾将軍となり、領石頭戍事を兼ねた。510年(天監9年)、宣毅将軍・南?州刺史に転じた。513年(天監12年)、入朝して宣恵将軍・丹陽尹となった。514年(天監13年)、南蛮校尉・荊州刺史として出向した。515年(天監14年)、雲麾将軍・江州刺史に転じた。518年(天監17年)、建康に召還されて西中郎将・領石頭戍事となり、まもなく再び宣恵将軍・丹陽尹に転じ、侍中の任を加えられた。520年(普通元年)、益州刺史とされたが、赴任しないうちに雲麾将軍・南徐州刺史に転じた。523年(普通4年)、平西将軍・寧蛮校尉・雍州刺史に転じた。524年(普通5年)、安北将軍に進んだ。526年(普通7年)、生母の丁貴嬪が死去したため、官を辞して喪に服した。しかし武帝の意向により、無官のままでもとの任を代行した。530年(中大通2年)、建康に召還され、驃騎将軍・揚州刺史として出向した。 531年(中大通3年)、兄の昭明太子蕭統の死により皇太子に立てられた。東宮を修繕していたため、東府に居住した。532年(中大通4年)、東宮に移転した。548年(太清2年)、侯景の乱が起こり、建康が包囲された。549年(太清3年)3月、建康が陥落し、蕭綱は侯景の監視下に置かれることとなった。 ![]() |
梁の簡文帝 巻七-15聖製樂府三首其一1. ?歌篇十八韻 巻七-16聖製樂府三首其二2. 蜀國弦歌篇十韻 巻七-17聖製樂府三首其三3. 妾薄命篇十韻 巻七-18代樂府三首其一1. 新成安樂? 巻七-19代樂府三首其二2. 雙桐生空井 巻七-20代樂府三首其三3. 楚妃歎 巻七-21和湘東王吹曲三首其一1. 洛陽道 巻七-22和湘東王吹曲三首其二2. 折楊柳 巻七-23和湘東王吹曲三首其三3. 紫?馬 巻七-24雍州十曲抄三首其一1. 南湖 巻七-25雍州十曲抄三首其二2. 北渚 巻七-26雍州十曲抄三首其三3. 大堤 巻七-27同?肩吾四詠二首其一1. 蓮舟買荷度 巻七-28同?肩吾四詠二首其二2. 照流看落釵 巻七-29和湘東王三韻二首其一1. 春宵 巻七-30和湘東王三韻二首其二2. 冬曉 巻七-31戲作謝惠連體十三韻 巻七-32倡婦怨情十二韻 巻七-33和徐?事見?人作?具 巻七-34戲贈麗人 巻七-35秋閨夜思 巻七-36和湘東王名士ス傾城 巻七-37從頓?還城 巻七-38詠人棄妾 巻七-39執筆戲書 巻七-40?歌曲 巻七-41怨詩 巻七-42擬沈隱侯夜夜曲 巻七-43七夕 巻七-44同劉諮議詠春雪 巻七-45?景出行 巻七-46賦樂府得大垂手 巻七-47賦樂器名得箜篌 巻七-48詠舞 巻七-49春閨情 巻七-50詠?閨 巻七-51率爾成詠 巻七-52美人晨妝 巻七-53賦得當? 巻七-54林下妓 巻七-55擬落日窗中坐 巻七-56詠美人觀畫 巻七-57?童 巻七-58代秋胡婦閨怨 巻七-59車中見美人 巻七-60代舊?有怨 巻七-61登顏園故閣 巻七-62戲作?詩 巻七-63夜游栢齋 巻七-64和劉上? 巻七-65詠?棲烏 巻七-66寒宵三韻 巻七-67詠秋夜 巻七-68同蕭長史看妓 巻七-69和湘東王夜夢應令 巻七-70曉思 巻七-71閨妾寄征人 |
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110 |
萸信 513年-581年 | (ゆしん) | 513年-581年 | ||
中国南北朝時代の文学者。字は子山。南陽郡新野の人。萸肩吾の子。南朝の梁に生まれ、前半生は皇太子蕭綱(後 の簡文帝)配下の文人として活躍した。侯景の乱後の後半生は、やむなく北朝の北周に身を置くことになり、代表作「哀江 南賦」をはじめ、江南を追慕する哀切な内容の作品を残した。 |
寄王琳 秋夜望単飛雁 |
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111 |
王褒 | (おうほう) | 513〜576 | ||
琅邪郡臨沂の出身。字は子淵。梁の武帝に仕えて清官を歴任し、蕭子雲に草書・隷書を学んで師と共に令名があり、顧 野王とも二絶と併称され、元帝が即位すると 吏部尚書・右僕射に進んだ。 |
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112 |
徐 陵 | (じょりょう) | 507年- 583年 | ||
中国南北朝時代、梁・陳の文学者・政治家。字は孝穆。本籍地は東海郡?県(現山東省)。梁では父親の徐?、?肩 吾・?信父子とともに、皇太子蕭綱(後の簡文帝)配下の文人として活躍し、「徐?体」という艶麗な詩風を確立した。侯景の 乱の混乱により、一時期北朝の東魏・北斉に抑留されたが、後に江南に帰り、陳でも文壇の大御所的存在として「一代の 文宗」と称えられた。詩集『玉台新詠』は、皇太子蕭綱の命により徐陵が編纂したとされ、その序文は六朝時代の駢文の傑 作として名高い。 |
『玉台新詠』序文 | ||||
玉-001-#1 玉臺新詠集序?§1-1〈徐陵〉 玉-001-#2 玉臺新詠集序?§1-2〈徐陵〉 玉-001-#3 玉臺新詠集序?§1-3〈徐陵〉 玉-001-#4 玉臺新詠集序?§2-1〈徐陵〉 玉-001-#5 玉臺新詠集序?§2-2〈徐陵〉 玉-001-#6 玉臺新詠集序?§2-3〈徐陵〉 玉-001-#7 玉臺新詠集序?§2-4〈徐陵〉 玉-001-#8 玉臺新詠集序?§2-5〈徐陵〉 玉-009 玉臺新詠集序?§3-1〈徐陵〉 玉-010 玉臺新詠集序?§3-2〈徐陵〉 玉-011 玉臺新詠集序?§3-3〈徐陵〉 玉-012 玉臺新詠集序?§4-1〈徐陵〉 玉-013 玉臺新詠集序?§4-2〈徐陵〉 玉-014 玉臺新詠集序?§4-3〈徐陵〉 玉臺新詠序の字解集 |
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陳後主 | 陳叔宝 | こうしゅ | 553年―604年 | ||
後主は、南朝陳の第5代(最後)の皇帝。姓は陳、諱は叔宝。後世、亡国の君主として暗君の典型とされる。施文慶、沈客卿ら奸臣を用い、尚書令の江総や陳暄・孔範ら「狎客」と呼ばれた文人たちと日夜宴飲と歌舞音曲にふけり、国政を顧みなかった。また、禎明2年(588年)には、腹心の吏部尚書蔡徴らの讒言によって、長男で皇太子の陳胤を廃嫡して呉興王に降格し、寵姫の張麗華が生んだ揚州刺史・始安王の陳深を新たな皇太子とするなど、乱脈な国政によって陳の国力は大きく衰えた。施文慶、沈客卿ら奸臣を用い、尚書令の江総や陳暄・孔範ら「狎客」と呼ばれた文人たちと日夜宴飲と歌舞音曲にふけり、国政を顧みなかった。また、禎明2年(588年)には、腹心の吏部尚書蔡徴らの讒言によって、長男で皇太子の陳胤を廃嫡して呉興王に降格し、寵姫の張麗華が生んだ揚州刺史・始安王の陳深を新たな皇太子とするなど、乱脈な国政によって陳の国力は大きく衰えた。 禎明2年(588年)10月、大陸の統一を目指した隋の文帝は、次男の晋王楊広を総大将とする総勢51万8000の軍を侵攻させた。翌禎明3年(589年)の元日には隋軍が大挙して長江を渡り国都建康に迫った。後主は「犬羊のごとき者ども(隋軍を指す)が我が国に勝手に侵入し、京師(国都の周辺地域を指す)の近郊を盗み取っている。蜂や蠍のごとき毒のある者は、時機を選んで(隋軍を)掃討・平定するがよい。内外ともに厳重に警戒するように」と詔したが、迎撃に出た将の紀?が撃破され、隋軍の前線司令官賀若弼が陳の捕虜を寛大に扱ったこともあり、形勢不利を悟った陳軍からは投降者が相次いだ。首都の建康が陥落するに及び、大臣の1人である尚書僕射の袁憲は「隋軍の兵士達が宮廷に侵入してきても、決して乱暴なことはしないでしょう。しかも今は陳国にとって最も重大な時でございます。陛下におかれましては、服装を正して正殿に着座し、梁の武帝が侯景を引見した時の例にお倣い下さいますように」と後主に進言したが、後主は従わず「剣の刃の下では当たっていくことはできない。私には私の考えがあるのだ」と言って、宮中の奥にある空井戸に隠れようとした。袁憲は繰り返し諫め、さらに後閤舎人の夏侯公韻が、自分の体で井戸を覆って妨害したが、彼を押しのけて張麗華・孔貴人の両夫人とともに井戸の底に隠れていたところ、結局、宮殿に侵入してきた隋軍に発見されて捕虜となった。張麗華は楊広の命により青渓中橋で斬られた。 陳の滅亡後、陳叔宝は隋の都長安に送られた。当時、亡国の君主が囚われると反乱を予防するため殺されるのが通例であったが、亡国や張麗華が殺されたことを全く恥じず、酒浸りの生活を送るなど、元皇帝とは思えない振舞いをしたため猜疑心が強かった文帝からも警戒されず、文帝の行幸に随行したり酒宴に侍るなどして余生を全うすることができた。 |
謝 眺 (謝玄暉) | しゃちょう(げんき) | 464年 - 499年 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
南北朝時代、南斉の詩人。字は玄暉(げんき)。本貫は陳郡陽夏県。 同 族の謝霊運・謝恵連とともに、六朝時代の山水詩人として名高く、あわせ て「三謝」と称される。また謝霊運と併称して「二謝」と呼ぶこともあり、その 場合は、謝霊運を「大謝」と呼ぶのに対し、謝?を「小謝」と呼ぶ(ただし 「小謝」の呼称は謝恵連を指すこともある)。宣城郡太守に任じられ、この 地で多くの山水詩を残したことから、「謝宣城」とも呼ばれる。竟陵王・蕭 子良の西邸に集った文人「竟陵八友」の一人であり、同じく八友の仲間 で ある沈約・王融らとともに「永明体」と呼ばれる詩風を生み出した。 謝?は若い頃から学問を好み、詩文に巧みで名声が高かった。南斉の武 帝の永明年間に出仕し、皇族である豫章王蕭嶷・隨郡王蕭子隆・南斉 の重臣王倹らの属官を歴任した。 493年、武帝が死去し、蕭鸞(後の明帝)が実権を握ると、その幕下に招 かれ、驃騎諮議参軍・記室参軍となって文書の起草をつかさどり、さらには 中書省の文書をも管轄することになった。明帝が即位すると、謝?は明帝 の封地であった宣城郡太守に赴任するなど、明帝に大いに信任された。 498年、謝?の妻の父である王敬則が反乱を起こした。王敬則は南斉の 武将としてしばしば武勲を重ね、高帝・武帝の二代にわたり重臣として非 常に信頼されていた。しかし、傍系の明帝が即位すると、先代の重臣だっ たことを逆に皇帝に警戒され、大司馬・会稽郡太守として朝廷の外に出さ れてしまった。明帝は病気で重態に陥ると、王敬則に対する警戒をさらに 強めた。これに身の危険を感じた王敬則も反乱を決断し、娘婿の謝?に協 力を呼びかけたのである。しかし謝?は王敬則からの使者を捕らえ、逆に朝 廷に王敬則の反乱を告発した。明帝は謝?を賞賛し、彼を尚書吏部郎に 抜擢した。岳父を告発したという行為は、謝?自身にもさすがに後ろめたい ものであり、これによって世間の批判を受けたため、尚書吏部郎を拝命し たのは再三の固辞の末のことであった。また彼の妻はこのことを恨み、懐に 短剣を隠し持って謝?に報復しようとしたため、謝?は彼女に会うのを避け た。王敬則の敗死に臨んで、謝?は「私は王公を殺したわけではないが、 王公は私のせいで死んだのだ」と嘆いたという。 明帝の跡を継いだ東昏侯は暗君で失政が続いたため、499年、重臣であ る江?・江祀兄弟は、これを廃して始安王蕭遙光を擁立しようと謀り、謝? にもその謀議への参加を誘った。しかし謝?は元々江?を軽んじていたことか ら参加を拒否し、彼らの計画を他人に漏らしてしまった。このことを知った蕭 遙光・江?らは計画が露見する前に先手を打ち、逆に謝?を捕らえ、朝政 誹謗の罪で告発した。詔勅が下り謝?は処刑された。享年36。 現存する詩は200首余り、その内容は代表作とされる山水詩のほか、花 鳥風月や器物を詠じた詠物詩、友人・同僚との唱和・離別の詩、楽府 詩 などが大半を占める。 山水詩の分野において、謝?は同族の謝霊運が開拓した山水描写を継 承するとともに、それをより一層精緻なものへと洗練させていった。さらに謝 霊運の山水詩が、前代の「玄言詩」の影響を受け、自然の中から哲理や 人生の教訓を引き出そうとすることによって、しばしば晦渋さや生硬さを免 れないのに対し、謝?の山水詩は、山水描写と自らの情感とを巧みに融合 させた、より抒情性豊かなものとなっている。このような精巧で清澄な描写 と抒情性に富んだ風格は、山水詩以外の分野でも発揮されており、謝? の 詩の基調となっている。 謝?の詩は同時代から高く評価され、「二百年来 此の詩無し」(沈約)や 「三日玄暉の詩を誦せざれば、即ち口の臭きを覚ゆ」(梁の武帝)のよう に、竟陵八友の間でも特に愛好された。他に少し遅れて「近世の謝?・沈 約の詩、任ム・陸?の筆、斯れ実に文章の冠冕、述作の楷模なり」(梁の 簡文帝)、「詩多くして能なる者は沈約、少なくして能なる者は謝?・何遜」 (梁の元帝)などの評価も残されている。 後世においても、「謝?の詩、已 に全篇唐人に似たる者有り」(宋の厳羽『滄浪詩話』)や「世の玄暉の目 して唐調の始と為すは、精工流麗の故を以てなり」(明の胡応麟『詩藪』) のように、唐詩の先駆として高く評価されている。唐の詩人李白は謝?詩 の 清澄さをことに愛好し、自らの詩の中でしばしば謝?の詩に対する敬愛を表 明している。 |
謝眺(謝玄暉) 《文選》に掲載された詩文
謝眺(謝玄暉) 《玉臺新詠》に掲載された詩
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![]() 紀 頌之 |